10、海部衆、初の帰還航海
小説:スペイン太平洋航路目次
1552年2月、ザビエルはインドのゴアに戻ってきた。
それから中国への布教を目指して中国へ向かったが、その年の12月、中国で病死。
ウルダネータが僧職についたのは、1553年3月である。
ウルダネータは、その12年後の1565年、日本近海を北上し、偏西風を捉えて太平洋を横断、
北アメリカに到達した男だ。彼は、1525年の第2回ロアイサ隊の生き残りだった。
1554年、ウルダネータは名を変えて、大西洋を渡り、アフリカ南端を回り、インドを回って、
マラッカ経由で日本へやってきた。
僧形の造船技術者、操船者も、バラバラにやってきた。
彼らを補佐する、スペイン人ルートに乗ってやってきた。
鹿児島までやってきた後は、皆、太平洋回りで海部にやってきた。
彼らは那佐湾で集結し、試行錯誤の末に、最終的に150トンの船を作り上げた。
協力者には、堺の出身者も多かった。伊達や島津からも来ていた。
この人たちの間で継承され続けた造船技術が、後に、
ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の造船や、伊達正宗の造船に生かされた。
操船を学んだのは海部衆だった。
東北の秘密港で補給し、太平洋に乗り出して行った。そして成功したのである。
ウルダネータの日本からメキシコへの帰還は、極秘情報としてスペインに伝えられた。
1558年のことだった。
ウルダネータを残して、別の航海士が乗り、
船はフィリピン経由、琉球、薩摩の秘密港経由で海部へ帰った。
1558年9月、航路開拓に否定的だったスペイン王カルロス5世が薨去。
1559年になると、フェリペ2世が、帰還路開拓に動き出す。
準備万端整って、1564年11月、ウルダネータを擁した第5回レガスピ艦隊が、
アカプルコを出発。1565年2月、フィリピン到着。
1565年6月には、ウルダネータが日本を再度北上して、
これが公式の、太平洋帰還路発見となる。
スペインのカルロス5世は、第4回ビリャロボス艦隊の結末にがっかりした。
第1回マゼラン艦隊5隻で、消耗したのが4隻。乗員265人の内、帰還1隻18人。
第2回ロアイサ艦隊で消耗したのが、7隻。
乗員450名の内、捕虜になった少数者以外は行方不明か死亡。
第3回サーヴェドラ艦隊で消耗したのが3隻。捕虜になった少数者以外は行方不明か死亡。
第4回ビリャロボス艦隊で消耗したのが4隻、
乗員370人の内、
投降してポルトガルルートで帰った117名以外の250人近くが、行方不明か死亡。
カルロス5世は思った。
帰還隊員のエスカランテがよこした、表向きでない、内々の報告では、
マラッカに来ていたゴーレスは日本人だったそうだ。
文字があり、刀剣が満ち溢れ、鉄砲が急速に流通し始めているそうだ。
日本人は言ったそうだ。
東向きの風があるから通商したい。
ザビエルに迎えを寄越すから、詳細を煮詰めたい、と。
しかし、複雑な内容を表す言葉も文字もなく、
社会に大きな組織が見られないような地域が多いのに、
どうして中国でない文明の国が、東の端の島々に、あると言うのだろう。
それに、話がうますぎるのではないだろうか。
ーーーここへ来て、カルロス5世の気力は折れてしまった。
その話にいくらか真実の可能性があったとしても、
それだけでは、到底、船を出すことはできない。また犠牲を出すだけに違いない。
ビリャロボス艦隊の生き残りが、希望がある、とか言っているけれど、
自分たちの成果を強調したいがための、虚偽ではあるまいか。
どうも信用できない。
このころカルロス5世は、スペインではなく、オランダのフランダースにいた。
(ここが生まれ故郷なのだ。この辺のヨーロッパ王侯事情は少々ややこしい。)
しかし、スペインの議会や商人たちは、やがてやってきたザビエルの報告に飛び上がった。
最初にやってきたのは、ザビエル書簡に同封されていた、
ポルトガル商人アルヴァレスによる日本情報だった。
アルヴァレスは、ペロ・ディエスの別名である。
初めての、かなり正確な日本情報だった。 (岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー』吉川弘文館p79)
それから数年かけて続々と届いたザビエルの書簡には、
海部という領主の領地で船を作って、アメリカ大陸へ渡ろうという計画があって、
それが着実に実行されるだけの、権威と権力機構、知識と技能、意欲と能力が確かにある、
ということが書かれてあったのだった。
僧形に身をやつした技能者たちを複数送り込むくらいのことなら、
フランダースにいる、あの落胆したカルロス5世に相談するまでもなく、
我々だけで、できるではないか。しかし王には連絡しておこう。
連絡を受けて、カルロス5世は思った。結果を待つしかない。