12、ウルダネータの帰還航海

                               小説:スペイン太平洋航路目次


                                参考:ウルダネータの帰還航海

ウルダネータは、今回の帰還航海には、さほどの不安を感じる必要はなかった。

もちろん、天候不順や、船内で発生する病気その他、一般的な危険はあるけれど、
航路そのものは、形式はともかく内容的には、
すでに確立されたと言っていいようなものだったからである。

ウルダネータが、海部衆とともにメキシコに帰ってきたのは1558年。
今は1565年だ。

この7年の間に、海部衆はスペイン人航海士を乗せて、3往復もしている。
フィリピンも琉球も、彼らは琉球人や薩摩人の手引きで航海したため、
痕跡を残すことなく航海した。

スペイン領ではスペイン人航海士が手引きして、これまた痕跡を残さないまま航海した。

船がどこから来たのかについて、乗員の申し立てを特に否定する材料がなければ、
そのまま鵜呑みにするしかない。

ましてや、ポルトガル領経由で来た宣教師たちがもたらした、
メキシコ副王ベラスコの依頼書を持っているのだ。

この依頼書のおかげで、行く先々で支援を受けることができた。
日本から来た、などと言うわけもなく、陸上生活者を誤魔化すのは簡単だった。

その海部衆に同伴したスペイン人航海士が、今回のウルダネータの航海にも同伴している。


琉球、薩摩、土佐中村と立ち寄って、いよいよ海部に近づいた。

4年間というもの、異国の人々とともに、造船と操船の、
技術供与と開拓にいそしんだ土地だ。

言葉の習得を含めてのコミュニケーション術の獲得、
材料の吟味と収集、加工技術の伝授、操船方法の伝授。

ゼロから始めた造船技術と操船技術の伝授は、困難を極めた。
しかしこうして、苦心が成功して実りあるものに変わりつつあるのだ。

今回、自分が帰還すれば、それはようやく公の航路開拓として、
スペイン国家に承認されることになる。

1521年のマゼラン艦隊の太平洋横断から40年以上が過ぎ、
多大な犠牲を払った帰還路開拓は、やっと公式に終焉に近づきつつある。

力を貸してくれた海部友光は、元気にしているだろうか。


那佐湾の宿泊所に落ち着くと、すぐに友光がやってきて、7年ぶりの再会を喜んだ。

今回のウルダネータの公式帰還航海に、友光も、
自分の航路開拓がいよいよ本格化することを感じて、感慨深げだった。

しかし友光は、伝わってきたスペイン船団の装備のことで、
今後のフィリピンの行く末に、一抹の不安を感じているようだった。

  航路開拓に力を貸してみたものの、
  スペインの動向まで左右するような力は、当然、自分にはない。

  自分のしたことが、かつての顧客に対して、
  良いものをもたらしてくれるように、と、望んでいる。

と、それをウルダネータに言うのだった。

しかし、言ってはみたものの、友光も、太平洋航路の確立が、
既に引き返すことのできない、時代の流れであるとも感じていた。

その流れをどうさばいていくのかは、住民とスペイン人の、今後の活動の問題である。
自分には少々遠いと、考えざるを得なかった。

ウルダネータも、その本質は航海者だった。
太平洋帰還路開拓を使命として、人生を賭けて来た。

その結果が、近い結果としてはスペインのフィリピン支配であったとしても、
もっと大きな世界の流れに、自分は与したはずだ、という思いがあった。

そしてその思いは、二人に共通していた。

友光の不安に、ウルダネータは心配するなと応えた。
彼らも必ず文明化しなければならないのだ。私も彼らの向上に力を尽くす。


しばらくの休憩と交歓の後に、ウルダネータは東北へと出帆していった。
そして、無事、メキシコへの公式帰還を果たしたのであった。