13、島弥九郎

                        小説:スペイン太平洋航路目次

1571年、島弥九郎は、問題の那佐湾の突端、乳ノ岬を回ろうとしていた。

那佐湾は、阿波南部の水軍の強者・海部氏の、極秘の港湾だった。

海部には古くから堺との行き来があって、商人たちが出入りしていた。

しかし、乗っている人や荷物は皆、集落に近い鞆の港の沖合いの海上で、
港用の高瀬舟に乗り換えたり、積み替えたりして、決して那佐湾へは行かない。
緊急で那佐湾に入っても、決して外は見られない、という具合である。

水夫以外の一般の者は、誰一人、那佐湾に入ったことがないのだ。

那佐湾に入る道は厳重に管理され、
湾を見下ろす周囲の山々への入山も厳重に管理され、

常に見張りがいて、沖合いを通る船も厳重に管理されていた。

夜は危険なので、誰も船を操ったりはしないのだが、

今日は先ほどまでの荒波が収まってきたばかり、
雲間からかすかに月の光が、もれるか、もれないかというところで、

運が良ければ湾内に侵入できるかもしれない。

いろいろ内偵してみたのだが、この湾のこととなると、
どうしてもわからないのだった。

湾内に深く侵入できたのは非常に運が良かった。
しかし目の前に展開する光景は、信じられないようなものだった。


孫吉は、水の上を、動いているものがあるのに気がついた。
動き方がどうもおかしい。あわてて家の中に入り、皆に知らせた。

湾口の方から船が押し寄せてきた。

「どこの者だ。名乗れ」

一隻が近づこうとしたとたん、矢が飛んできた。
月の光の中の戦闘となったが、多勢に無勢。

追い詰められて島弥九郎は切腹。他の者も全員死亡となった。

どこの者だ?一番怪しいのは、安芸を襲った長宗我部ではないだろうか。

斥候が生け捕られるわけもなし。こうなったら仕方がないではないか。
長宗我部氏の弟が、斥候など、務めるわけもない。

『土佐物語』の話は全部作り話であろう。

長宗我部元親が突然「弟が殺された」と言い始めた時、

家臣は誰も「そんな弟がおられたのですか」などというような、
馬鹿なことは聞き返さなかった。
戦死した者が弟に格上げされたのだ。良いではないか。ということである。


弥九郎たちが行方不明になってしまったので、長宗我部軍では、あちこち探索した。
しかし、嵐の後の夜、甲浦で、忽然と船ごといなくなった、ということしかわからなかった。

海部の那佐湾の探索に行ったのだ。
行った先は那佐湾で、探索に失敗して殺された、としか考えられなかった。

海部では誰も事件を口にする者はいなかったが、
長宗我部氏が弥九郎に与えた任務は、はっきりしていた。

お前の死は無駄にはしない。今に、弟が殺されたということにして、
必ず海部を攻め亡ぼしてやるぞ。

 (実のところ、当時そんな口実が必要だったかどうか、それすら怪しい。
 狙って攻め落とそうと思ったところは、必ず攻め落としているわけだから。

 江戸時代にできた小説だけが、いかにも正当理由があったように、
 こじ付けていると言っても過言ではない)


江戸時代になって、蜂須賀氏の支配が確立してから、付近の住民が、
この事件で死んだ人々のたたりを怖れて、鎮魂のために、彼を二子島に祭った。

1575年に長宗我部氏が攻め込んできた時、土佐勢の間では、島弥九郎の話など、
全く話題にもならなかった。これを考えても、弟だ、などというのは、いかにも作り話らしい。

島弥九郎などという名前は、百年後に『土佐物語』が語って初めて、
海部で登場したのである。


*司馬遼太郎氏の『街道を行く』に、宍喰から海部あたりの話が出てくるけれども、
何を聞かされるのか、妙に色メガネのかかった書きぶりで、
どうしてこうなるのかと思ったわけである。

誰か、何か、海部に関して、いまわしい話を吹き込み、原典史料を歪曲し、
あるいは重要証拠から削除し、情報操作をたくらむ特定集団が、
長期間、活動しているようなのだ。



白石一郎氏に『航海者』という本がある。
ウィリアム・アダムズ(三浦按針)を主人公にした小説である。

ここに、徳川家康が命じて、洋式帆船を作らせた話が出てくるのだが、
造船用のドックがない、というわけで、三浦按針が考えたという、
ドック代わりの方式というのが出てくるが、
それがまた、とても不思議な方法なのだ。

川の三角州で船を作って、その周りを掘り下げていき、その前後に、
川から引いた用水を満たす水路を設けて、船が完成した暁に、
せき止めてあった川の水を流して進水させる、のだと言う。

白石氏ほどに航海関係の描写に優れた作家が、こんなことを書くなんて、
これも誰かによる、何かの情報工作ではなかろうか。

私だって造船のことなど何も知らない。しかし、どうせなら、
海水の干満を利用すれば、ドックというのは、できるのではないだろうか。

引き潮の時に、水が引いた所に、頑丈な石垣で、囲いを組んで行く。
船が出入りする通路の分は空けておく。

修理用の船は、満ち潮の時に、潮に乗せて入れれば良い。

引き潮になった時、水は出て行く。浜の上に船だけ残される。
次は、満ち潮の時、海水が入って来ないように、遮断用の扉を取り付ければいいのだ。

造船の場合には、遮断扉の内側にできた浜に、船底を安定させる台を設置して、
そこで完成させれば良い。

そう考えると、自分でも、それらしき物を見たことがあるのではないか、という気がしてくる。
那佐湾の岸壁の、丸くえぐったような、さらなる小さい湾に、高く丸く作られた石垣。
中央が切れていて、海水が自由に出入りするようになっている。

この上を、木の柵で囲い、遮断用の扉を取り付ければ、ドックができそうだ。

ただし、私の記憶は50年くらい前のものである。現在通っている国道の脇にあったのだ。
私が、あれなあに?何のための物?どうも怪しい。なんて言ってる内に、
大層な取り壊し工事をして、きれいになくなってしまった。ような気がする。



それにしても、白石氏はどうして、三浦按針の造船に関して、
ドックの描写をこのようなものにする、必要性が、あるのだろうか。

ちょっと、ネットでドックを調べても、ドックが潮の干満を利用したものだ、
というような話は、すぐには見つからなかった。

よく探せば、出てくるのだろうか?