2、南海路
小説:スペイン太平洋航路目次
1467年に起きた応仁の乱の時、海部の港は、にわかに中央の騒ぎに引っ張り出された。
博多商人と結んだ大内氏が、遣明船の帰途、瀬戸内海航路をはばんだのだ。
大内船は瀬戸内海の通行を許されたが、幕府船・細川船は、遠路はるばる、
南九州・土佐を回って帰るはめになった。
未開拓の航路を、危険をかいくぐりながらの航海だった。
古くからの友邦、阿波海部の援護が頼める海域に到達した頃には、
両船とも、操船が怪しくなるほどの傷み方で、
積荷をすべて海部で積み替えて、ようよう堺に舞い戻ったのであった。 (参)
この時から、幕府と細川氏にとって、海部の港は、
急速に秘密基地の様相を帯びてきた。
それまでは、海部氏の本拠地が、実際に余所者の目に触れることは、
滅多になかった。
足利幕府ができる時に、細川氏は阿波勢をかき集めたが、
海部氏の本拠地など、知る由もない。
しかし操船の巧みな戦力であり、非常に優れた刀を持っているのが、
ひどく目立った。
本拠地が、人に知られないほど奥地であるにも関わらず、
戦力として不似合いな優秀さであり、それが目立ったのである。
1352年2月25日、観応の擾乱のさ中、細川顕氏の依頼によって、
海部氏は京都警護に当たっていた。 (参)
細川氏と海部氏は、共に戦うことによって絆を深くした。
以後、細川氏との縁で、海部氏は、京都の幕府高官の目に触れる所に、
何度か登場するのだが、これらはあくまでも、海部氏の京都出張であった。
ところが応仁の乱で、幕府・細川の遣明船が、太平洋側の航路(南海路)
を取ったため、突然、海部氏の本拠地が、脚光を浴びることになったのだ。
幕府関係者・細川氏関係者、そして堺商人の関係者までもが、
海部氏の本拠地を垣間見ることになった。
遣明船貿易で莫大な利益を上げた刀剣の産地であり、 (参)
その海運の手練は、見事なものであった。
その本拠地が、こんなところにあるなんて。
皆が目を丸くしてしまった。
「この度の大内氏の所業はひどいものであった。
しかしそのおかげで、南の海の航路というものがある、ということが、
しっかりわかったぞ。」
「琉球船は毎年のように来航しているが、
古老の話では、それは60年以上も前からだそうだ。 (参)
南海路を取れば、琉球の動きも、知ることができる。
今回の迂回でも、琉球人には、随分世話になった。
九州南部の海は、琉球人には自分の庭と同じだ。
そして彼らは、はるか南のシャム(タイ)やマラッカ、<ベトナム>、
まで足を伸ばして、明に交易品を運んでいるのだ。
それは、明ができた頃(1368年頃)に鎖国政策を取った、
その頃からのことで、つまりは琉球人が、
明の貿易の肩代わりをしていたようなものだ。
堺から南九州へまわって琉球と結べば、この南海路には、
明以外の南の国々と交易する機会があるかも知れない。」
「そうだ。そのためには、まずは間近な海部の港が、非常に便利だ。」
南海路は、これを皮切りに、その後度々、遣明船の航路として使われた。
その都度、堺の関係者は琉球人との情報交換に余念なく、
南方方面との交易情報を収集し続けた。
南方方面への関心は、南海路沿いの一部の人々の間で、
次第に恒常的なものとなった。
そしてついには自分たちで船を用意し、琉球人を水先案内人として、
南方へ乗り出して行く者が現れた。
刀剣は、南方でもよく売れる商品だった。武器は南方でも必需品だったのだ。
戦乱の世を乗り切るために、武士たちは資金の調達に躍起だった。
はるばるマラッカまで出かけ、実演販売して住民を怖れさせ、
ゴーレス(刀剣)とあだ名されたのは、こうした武士たちである。 (参)