2014・9・21 10年前の隣家の火事のこと
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団地の防災訓練が近づいているので、ふと思い出した。
10年位前の、下の隣家の火事のことである。
冬のその日、かなり風が強かった。
編み物をしていると、外から妙な音がしてくるのに気がついた。
シャワシャワ、というような、軽い何かが擦れ合うような音である。
そしてそれに、パンパンという、何かが弾けるような音も混じっている。
さっき夫がバイクで出かけたばかりだ。
例によって、夫が庭で何かして、その作った軽い工作物か何かが、
風にあおられて飛んでいるのだろうか、
というようなことを想像して、庭に出てみた。しかし、何も見えない。
一旦は家に引っ込んだのだが、しばらくすると、さらに大きく、
シャワシャワ、パンパン、と派手になってきた。
庭に出ると、やはり何も見えない。
と思った瞬間、下隣の家の地下車庫の上から、大きな火が立ち上がるのが見えた。
次の瞬間には、また低くなったが、どうも火が大きすぎるように思った。
隣家の植栽の間から下を覗くと、地下車庫のコンクリートの上で、
以前、庭にたくさん生えていた、細竹の山を燃やしているのだった。
どう見ても焚き火であろう。少し前まで人がいたはずだ。
この風の日に、火を付けて、家の中に引っ込むなんてことがあるかしら。
しかし、これだけ音がしているのに、住人は全く関心がないらしい。
おかしいなと思ったけれど、これは怖い。水をかけたらどうかと、家を振り返ったら、
上隣の方が、「消防に連絡しますよ」とおっしゃる。
年長の男性の方の言うことだから、おまかせするに限ると思って、
自分はホースを取ってきて、植栽の間から水をジャージャーとかけ始めた。
それでも隣家は全く動き無し。
一声「○○さ〜ん」と怒鳴ってみた。
自分のこういう声というのは、普通の人のそれではなくて、
ドスがきいて、妙に突き抜けて響き渡るようだ。
が、隣家の住人も反応がないし、真昼間の日曜日に、だあーれも反応なし。
日光が燦燦と降り注ぐ中、すべてがし〜んと静まり返って、
手に持ったホースの放水の音だけが、やたらとジャージャーと響く。
ホースの先の器具が具合が悪くて、水が手元からしたたり落ちる。
手前の植木も邪魔だ。
手が冷たいし、水圧が弱いようだ。蛇口を確かめたいと思った。
一瞬、家に中に息子がいるのが思い浮かんだ。
しかし、今の自分の位置からこの姿勢で、自分の息子の名前を、
家の中に届くように大声で呼ぶというのは、ご近所にどうかと思われた。
いるのは、隣家とは反対の場所なのだ。
息子のことが頭に浮かんだのは、この瞬間だけで、後はすっかり私の頭から消えてしまった。
ちょっと気を抜くとと、たちまち火の手が高く上がって、隣家の窓を舐める。
そのために身動きできない。
この団地は、山を削って南東傾斜に作った階段状の開発地である。
我が家は道路から、低いところで2メートル、高いところで3メートルほど、道路より高い。
我が家の敷地と下隣の敷地との高低差は、1.5メートルくらいある。
だから私は、上から下に向けて放水していたのである。
下隣の敷地は、道路から4メートルほど高い。
おそろしく時間がたったと思う頃に、上の隣家の方が、下で消火栓を作動させ始めたようだった。
そこへ、別の家の方も手伝いに来てくれたようだった。
この団地は道路に消火栓が埋め込まれていて、防災訓練の日に、使用方法の講習をやっていたのだ。
本番があるなんて、考えもしなかった。
やがて、突然、ドシューっと消火栓からの放水が始まった。
ところがである。驚いたことに、水が当たったとたん、並んだ高い木の梢が、メラメラッと次々に燃え始めたのだ。
消火栓の水が、まるで油か何かのように見えた。
「水ですよね。」下の方で声が聞こえる。それから、一旦弱まった水が、また強くなってくる。
気がつくと、緑色だった木々の葉が、いつの間にか茶色く変色していた。
下の火ばかり見ていて、木の変色に全く気がつかなかったのだ。
それが次々に発火する。
燃え始めた高い木と、放水と、どちらが優勢なのかと、愕然とした。
後で考えると、放水の勢いで、発火寸前だった木々の葉が、擦れて燃え始めたのだろう。
ドシューッ、バリバリ、メラメラ、という激しい有様になって、
ようやく下隣のご主人が、玄関から出てきて、バケツを持って来て消火を手伝い始めた。
二階の窓からは、洗面器で水をかける手が見えた。
結局、この家には家族全員、5人が、家の中にいたのだった。
その内、サイレンを鳴らしながら消防車がやってきたけれども、
それはほとんど消火が終わってからだった。
その間、ホースの水を止めるなと言われたので、私もずっと放水し続けた。
消防車が来て、へなへなと、文字通り腰が抜けたような感じで、家の中でへたりこんだ。
大勢の人々がざわざわと見物に集まり始めたけれども、動く元気なし。
見に来ないのよ、あれだけの騒ぎに、知らん顔をしてた、何て言われてはたまらない。
そうだ。防災訓練の日に、皆に言っておかねばならない。
自分の放水が、多少効果があって下火に見えると、
下隣の住人が突然顔を出して、
何を余計なことをするんですか、と、詰問されるのではないかと思った。
炎が隣家の窓を舐めるように大きくなると、
一体、隣の家の人は、何をしているんだろう、と、不思議に思った。
2軒上の住人まで、気が付いて消防署へ連絡を、とまで言ったのに、
ドンパチ音がして、ジャージャーと放水の音がしているのに、
私は、外なら百メートル四方は聞こえそうな程の声で怒鳴ったのに、
家の中で静まり返っている、なんてことがあるだろうか?
怒鳴って呼んではいけないようなことを、家の中でしているのだろうか?
では、こういう場合、何と言えばいいのだろう?
「火事です」、と言えば、「何でもないのに、何を余計なことを」と怒られそうな気がする。
消火栓の放水で燃え広がるまでは、車庫の上で燃えているだけのように見えたのだ。
うかつに「火事です」と怒鳴れば、自分が隣家の恥を、積極的に近隣にばらまくことになる。
では、一体何と言えばいいのだ?しかし頭の中が詰まったようで、どうしても考えが回らない。
「火事です」の言葉が使えない、と思った瞬間、代わりに何と言えばいいのか、というところで、
頭の中がパニックになってしまっていたらしい。
後で息子に、え、ボクをどうして呼んでくれなかったの、と言われて、ビックリした。
ここにも、呼ばないと気がつかない、ボーっとした奴がいる。
それに私は、ある一瞬以外は、息子がいるのも、息子を呼ぶのも、忘れていたのだった。
どうして呼んでくれないの、という質問に、とっさに説明することもできなかった。
私が上から水をかけていて、家にいる君を呼ぶような状況ではなかったんだ、
と言えば良かったのだろうけれど、
これまた、絶句するばかりで、私って、言葉がどうして回らないのだろうか。
ひたすらへたりこむばかりで、そのままになっている。
こんな具合に、一緒に住んでいても、経験というのは食い違っていくのだ。
今思うと、火事かどうかわからない状態では、
隣近所の人の名前を呼び立てる、というのはどうだろうか。
しかし、○○さ〜ん、と下隣の人の名前を呼んだような調子で、
無関係な他の人の名前を呼ぶのはどうだろうか。
たった一人で、水をかけながら、どうしたらいいの、と、途方にくれた経験があるので、
「火事だ」の一声が、どのように出て来にくいかを、痛感する者として、
今も考え続けている。
「誰か来て〜」がいいのかな。
眼前の、下隣の前のおうちを見ながら、
この白昼、ここも全然気がつかないなあ、
と、たじろぐ思いで考え、
呼んでいいかどうか躊躇し、消防は来ない、と思い巡らし、
自分が水をかけている限りは、抑えていられるみたいだと思い、
その状況に変化がない、と、燃え続ける火を見、
う〜ん、と考えているうちに、
消火栓の作動準備が始まったのだった。
テレビを見たり、音楽を聴いたりしていれば、気がつかないだろうし、
その上、二重窓にして音を遮蔽する構造だったりすれば、ますます気がつかない、
ということもあるだろう。
他のある種の人々なら、大いに下隣の非を打ち鳴らし、自分の恐怖を訴え、
とっくの昔に、下隣の非、という風に、言いふらして、確定しているはずなのだ。
こういうことは、言いふらし活動?というようなものが勢力を決する。
それは私の長い経験だ。
ありもしないことでも、言うことが勢力を決する。そういう傾向が強い。
しかし私は、そういう活動は苦手だ。
逆に、でたらめでも、人を丸め込むのが絶妙な人がいるものである。
そういう人が当事者なら、風の強い日に、火を付けたまま放置する、信じられない非常識、
ということを激しく訴えて、同調者を募るだろう。
逆に、そういう人を敵にしている場合、そういう人は、周囲に知らせない非常識と、
下隣ではなくて、私を非難して止まないだろう。
この世の中では、自分が思うような道義や徳目なんか、全然役に立たないことが多い。
どうすればいいんだろうと思うことが再々である。
そして私は、家族にさえ、全然何も言っていない。火事だった、と言っただけ。
何しろ、他人に公表しないままの、他のことでも非常に忙しい。
それがこのホームページの書き込みである。