8、ザビエルとヤジロー

                             小説:スペイン太平洋航路目次


1547年12月のマラッカ。
ザビエルが、アンボンでビリャロボスを看取ってから、1年半後のことである。

ザビエルは、ポルトガル船で日本からやってきた、3人の日本人を迎えた。
島津家の家臣で、3人ともポルトガル語を学んだ、交易担当者だと言う。

島津氏は、ビリャロボス艦隊の探検を知ったことで、
さらにスペインとも交易する機会を手にしようと言うのだ。

一方では島津氏は、まだ領国内の統一に苦しんでいた。
工作の裏には、そういう事情もあった。

彼らはザビエルに言った。

  当主の命によって、スペインの太平洋航路の寄港地開設について、
  事前準備のために、ザビエル様を薩摩へお招きしたい。

  ザビエル様の身辺警護を仰せつかった。
  必ずや無事に日本までお連れいたす。

それに対してザビエルは言った。

  確かに自分は、スペイン太平洋航路開拓の秘密交渉の代表者である。
  お招きに感謝する。

  しかし私は本来、世界にキリスト教を広める仕事をしている者。
  布教を目的として日本に渡らなければならない。

  どなたか、是非ともキリスト教に関心を持っていただいて、
  布教の手助けをしてくださる方が欲しい。

  そうしないと、ポルトガル人にも日本人にも、怪しまれるであろう。
  表向きは布教を目的として、堂々と日本各地を巡って、
  日本の実情を本国に報告したい。
  何もわからないまま日本に寄港するような危険は、冒すことはできない。

それからザビエルが延々と展開する信仰についての話は、ヤジローたちをたじろがせた。
交易のことだけで済むと、簡単に考えてきたのだ。

これは半端なことでは対応できないと、腹をくくらざるを得なかった。
ザビエルの布教に対する熱意は、ヤジローたちの理解をはるかに超えていた。

それでは、と、ヤジローは、西洋世界の根幹だと言う、その宗教に、
取り組んでみることにした。

日本で、多少はポルトガル人から、キリスト教の話は聞きかじっていたものの、
それを納得するのは大変だった。

ヤジローは、この西洋の宗教を理解して日本の人々に紹介するのは、
自分の大きな仕事だと感じた。

西洋世界の根幹にある宗教なら、勉強のし甲斐があると言うものである。
相手が何を考えているのか、わかれば交渉もやりやすいだろう。

いずれにせよ、自分がやらなければ、日本での交渉の安全に関わる。
それなら、できるだけ勉強して行こう。

ヤジローは、知的好奇心でキリスト教に取り組んだ。
ザビエルはその熱心さに驚いた。

後世の歴史では、ヤジローは、人を殺めてマラッカへ逃亡し、
悔恨の念にかられてキリスト教に改宗した、ことになっている。

平和な現代で「ヤジローは人を殺めた」と言うと、ヤジローは本当に悪いことをしたのだ、
という印象で受け止められる。

しかし当時の島津氏は、薩摩・大隅・日向3州の統一のために、戦いにあけくれていた。
君主の命とあらば、戦に赴いて敵を殺すことが武士の努め。

敵を殺したことは罪である、と布教者に言われれば、
ヤジロー自身は、本心ではかなりな葛藤に見舞われただろう。

また、西洋人の活動全体からしても、相当な矛盾を含むものであることは、
ヤジローも察知したに違いない。敵対者を殺すのは、彼らも同様だったのだから。

しかし、矛盾など飲み込んで、とにかく探求するしかない。
宗教と彼らの活動は、どういう関係になっているのだろうか。

そしてその内、自分も本当に信じられる何かがつかめるかもしれない。
しかし、つかめないかもしれない。やってみるしかない。

キリスト教が、思いも寄らない深い学問を形成しているのを知って、
ヤジローはインドのゴアまで行く求道者となった。

そして洗礼を受けて、日本人初のクリスチャンとなった。

ヤジローがそんなことをしている内に、島津氏は、薩摩統一戦で、鉄砲を実戦に使って勝った。
1549年5月末の加治木城攻めである。

日本初の鉄砲使用の実戦例であり、信長が大規模な鉄砲隊を使って大勝した長篠の戦いの、
26年前である。それは、ザビエル日本上陸の、数ヶ月前だった。