9、ザビエル
小説:スペイン太平洋航路目次
ザビエルが鹿児島に上陸した時、驚いたのはヤジローの人気だった。
彼は数々の武勲を立て、居あい抜きの若手第一人者として、
郷里の人々の間では、絶大な人気があったのだ。
その彼が、この度、2年の海外渡航の末に、
無事、使命を果たしてスペイン人を連れて帰ったのだから、
その人気は以前よりいや増しなのは当然である。彼はまさにヒーローだった。
これからはきっと、スペイン人との交易もうまく進んで行くに違いない。
ザビエルが上陸した時、薩摩にはポルトガル人しかいなかった。
ザビエルに同行した宣教師二人は、共にスペイン人だった。
フアン・フェルナンデス、コスメ・デ・トーレス。
ザビエルとフェルナンデスはポルトガル領から来たスペイン人なので、
ポルトガル語に堪能だったのは間違いない。
しかしトーレスは、何と、ビリャロボス艦隊から移動してきたスペイン人神父だった。
彼は、ザビエルが日本を去って後までも、約18年間、日本で活動を続ける。
宣教そのものは、カソリックの布教ということで、ポルトガル王の支援を受けていた。
そのために、全く怪しまれることなく、ポルトガル人の活動拠点に自由に出入りし、
その活動ぶりを観察することができた。
ポルトガル船を介して、手紙のやり取りもしていたし、贈答品なども受け取っている。
ザビエルは、布教の許可を得ようと京都まで上ったが、京は荒廃していた。
そして天皇には会えず、
また、武士たちに対して力を持たない、ということがわかっただけだった。
京都まで行ったけれども、堺に来たという確実な証拠はない、
ということになっているが、
それは、スペインと堺の関係を取り上げられては困るから、
「極秘だから」誰も書かなかった、ということであって、
実際は、極めて重要な関係が発生したのである。
彼が平戸から京都へと、直行便のない季節に、徒歩で都へと急いだのは、
実は、都よりも堺の方に、重要で確実で急ぎの用があったためである。
堺で密かに歓待されたけれども、そのようなことは、後の記録には、
一切、残してはならない。
日比屋了慶の邸で、三好長慶と共に会ったのは、海部友光であった。
海部友光は、三好長慶の妹婿なのだと言う。
長慶は、海部友光からもらったと言う「岩切りかいふ」と異名を取る日本刀を見せながら、
自分と、日本刀の産地の領主との結びつきを説明した。
彼らは言った。
すでに東北に、良い風を望める秘密の港を確保した。
南は、琉球や薩摩や土佐に、港が見つかるであろう。
そして堺に一番近い拠点港は、海部である。
どうか海部に、西洋の船の技術を導入させてもらいたい。
木材は豊富だし、材料は堺の港で何でも調達できるだろうし、
船大工もいれば、鍛冶屋もたくさんいる。
造船技術と操船技術を学ぶ方法があるならば、
まずは我々が、スペインの人々と共に、アメリカ大陸に行ってみよう。
メキシコの太平洋岸の拠点にたどり着ければ、
太平洋一周はできるはず。
ポルトガル船の修理技術を学ぶなら、平戸へ行けば何とかなりそうだし、
操船に関しても、何か方法が見つかるのではあるまいか。
というわけで、話は進んだ。
ザビエル一行の後に続くスペイン人宣教師たちが、さらなる道を開いた。