b、海部友光と伝説
小説:スペイン太平洋航路目次
16世紀、日本から北アメリカに向かう北太平洋航路の発見に、
参画した日本人たちがいる。
その日本人たち一団の長は、ある伝説を持っていた。
1800年ほど前に日本列島へやってきた、ヤマト族の子孫だというのだ。
そのヤマト族は、ペルシャが出立地だと言う。
「日の出の地から日没の地まで支配した」
という伝説の地にいたのだが、
その東には、まだまだ地が続いていた。
ヤマト族は東へ東へと移動しながら、戦い続けなければならなかった。
ある激しい戦闘が始まって、陸地に逃げ場を失った時、
東の海を渡れば、そこにはまだ島がある、と告げる者があった。
海を渡ると、果たしてそこには、ある程度の大きさの島々があった。
ヤマトはここが最も東の端らしいと思って、
そこを定住の地と思い定めて暮らし始めた。
そういう伝説を持っていたのに、東の海のはるか向こうには、
北から南まで、通り抜けることのできない長大な大陸があると言う。
それを聞いたのは1543年。
ポルトガルではない、スペインという勢力が、
その海の向こうの東の大陸から南の島に来て、元の大陸へ帰るための、
東向きの風を探していると言うのだった。
それを聞いて耳をそばだてた、この伝説を持つ一団の長の名を、海部友光と言う。
友光が支配していたのは、四国は東南の、阿波海部であった。
友光は知らなかったけれど、ヤマトの一団がこの日本にやってきて後、
数代の間は、東のかなたの土地を探して、列島を北上した一団もあった。
*国立科学博物館「日本人はるかな旅展」
ここに掲示されている地図を見ればわかるけれど、
弥生人形質と縄文人形質を、
部分部分、くっきりと足したような人骨が、
関東以北、東北、北海道から、出土しているのである。
到着直後にヤマト族形質だった両親。
その息子が縄文人と結婚すると、生まれた子供は、
両方の形質をくっきりと映している可能性が高くなる。
我々の日常では、必ずしも、そうとは言えないかもしれない。
両親のどちらか片方だけに良く似ている子供もいるし、似ていない子供さえもいるだろう。
しかし、はっきりと、そういう二面性を持った人骨が出土したことは、
間違いなく混血の痕跡である。
要するに、その古代の地層の年代(周囲から出土する遺物によって特定できる時代)に、
縄文人ではない、中間形質と識別できる人骨があることは、
その時代に、弥生人がその地(関東以北)に来て、そこで縄文人との間に子供を作った、か、
別の地(関西)で生まれた子供が、その時代に、その地(関東以北)まで移動したか、である。
後代の弥生人形質の人間が、後代の縄文人形質の人間と、子供を作った場合、
その周囲から出土する遺物は、後代のものになるはずである。
ヤマトの一団には、はるか彼方からやってきたため、地域を探検するという考え方を、
持ち続けて来た一団もいたのである。それを聞いた子孫の内から、遠方へ出てみる者も出た。
早期に出た、こういうヤマトの動きは、ごく一部の探検隊の活動として、その地に消えていった。