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                                  小説:スペイン太平洋航路目次 


海部城
遥か海上を渡ってくる暖かい黒潮の風が、友光の全身を強く吹きあおった。

海部川河口の島は、海上の監視だけでなく、
上流からやってくる木材の監視や他所との交易の監視、
水夫の集落である鞆浦への連絡に、便利な地であった。

この度、古くからあった砦を、強固に建て直して瓦屋根を葺き、
城の体裁を整えたのは、どうしても海を臨みたかったからである。

風雨が強く危険も多いが、地の利を考えれば止むを得ない。

緊急の際には、島の端から集落へ向かって叫べば、
水夫たちが即座に応じることができる。

海上への警戒を強化し、他所からの侵入に備えるには、
この島の上に築いた海部城は、便利な場所であった。

海部川と海水が混じる城の周囲の堀は、
船の出入りがしやすいように、さらに深く大きく掘った。


那佐湾
近年は、この海部も、昔に比べれば人の往来が極めて激しくなった。

それもこれも、応仁の乱で、中国地方を支配していた大内氏が、
明から堺へ帰る幕府船と細川船の、瀬戸内海通行を、はばんだためである。

瀬戸内海を通れなければ、九州南端を回って、太平洋側の航路を取るしかない。

幕府船と細川船は、九州南端の薩摩をまわり、
太平洋側では一番近しい海部を目指してやってきた。
そしてやっとの思いで堺に帰った。

この大事件のおかげで、
太平洋側の航路、南海路が、一躍脚光を浴びるようになった。

遣明船は、それから何度もこの太平洋側の航路、南海路を通り、
それにつれて、堺と、南九州や琉球との往来も、頻繁になってきた。

それは1468年以来のことで、1565年の今からすれば、
かれこれ百年にもなる。

しかし、鞆港の脇にある那佐湾の警戒は、他所からの往来が盛んになるに連れて、
以前にも増して厳重を極めるようになった。          *那佐湾

特に1554年以来、スペイン人技術者がこの地に来て洋式帆船を作り始めた時から、
その厳重さは比類のないものになった。

那佐湾は昔から、道のない、極秘の港湾だった。
湾内各所を往来するには、船で行き来するしかない。

奥行き3600メートル、幅は狭いところで200メートルという、非常に細長い形をしていた。

堺から人が来ても、乗っている人や荷物は皆、集落に近い鞆の港の沖合いで、
港用の高瀬舟に乗り換えたり、積み替えたりして、決して那佐湾へは行かない。
緊急で那佐湾に入っても、決して外は見られない。

仮に那佐湾に入ることができる人がいたとしたら、
それは誰にでも認められる、認可状の持ち主だった。

水夫以外、認可状所持者以外の一般の者は、誰一人、那佐湾に入れない。

それは、湾内でスペイン人が中心となって秘密の造船に躍起となっていたからであり、
そのための設備が湾内のあちこちにあり、中で大勢の人が立ち働き始めたからだった。

湾を見下ろす周囲の山々への入山も厳重に管理され、
常に見張りがいて、沖合いを通る船も厳重に管理されていた。

海部衆の乗り合わせた海部船のメキシコ往復が3度となり、
これからいよいよ公式スペイン船を迎える段となった。

湾内にはスペイン人のための宿泊所が整い、水や食糧の積み込み、
装備品の補充、これらのことが、滞りなく進められるように準備も整った。

そして特別許可の堺の商人たちが、その日のための極秘の交易品を準備して、
近隣の指定宿泊所で待機していた。

メキシコに持ち帰っても、日本産とわからないような物、という限定付ではあったが、
珍奇な物が見られる良い機会だったので、多くの商人が集まってきていた。

こうした舞台として、海部城も、それなりに体裁を整える必要があったのだ。



細川氏・三好氏
海部は、長らく未知の者を寄せ付けなかった、海部刀の産地である。
室町幕府成立の際には、細川氏の四国勢呼集に応じて、友光の祖先も参加した。

               *1352・1392・1420・1445年史料
                  このように、確実な同時代史料があるのだが、それを有力歴史著述者が引用すると、
                  必ずおとしめるような操作があったり、丸ごと削除されたりするのである。
                  これが情報操作でなくて何だろうか。
                  特定勢力が操作依頼していると考えると理解しやすい。
                      
                      
友光の祖先は、他の足利幕府を押した人々と同様に、
やはり武士を重視してくれる政権が欲しかったらしい。

幕府行事参加の時々の晴れやかな気分は、友光の祖先の記憶を暖めたものだ。
そのことは、友光も聞いていた。

太平洋岸の僻遠の地を根城に、せっせと武器を生産でき、
豊富な木材を重要な商品にすることができたのは、強力な海運力のおかげであった。
古くからの、細川氏と海部氏のつながりはそれである。

スペイン側で造船技術供与交渉を担当したフランシスコ・ザビエルが堺にやってきた時には、
堺で勢力を張っていた三好長慶に義兄弟の名目でその力を借りたのに、
その長慶も、去年、あの世へと旅立っていた。

この下克上の世の中では、何がどうなるかわからない。
近畿の情勢も混沌としていたが、土佐の情勢も気を許せなかった。
しかし、土佐との間には、急峻な山と、室戸岬の荒波がある。
まだ時間はあるだろう。


古代の祖先
鞆城から海部川を挟んで北岸の上には、友光の先祖が眠る巨大な祭壇墓が見えた。
二つの頂上を持つこんもりした山である。

友光は、先祖がこの地にやってきた時の気持ちを考えた。

京や堺に近いが、陸路は難路であり、秘密の海の根拠地にふさわしい。
知られずしてはやっていけないが、知られても具合が悪い。

ひっそりとやっていくなら、ここは一つの可能性のある場所だと。

3世紀の探索の旅は、阿波南端を流れる海部川を目印にしたので、
ここはヤマトの地として、有力候補になった。
そして、友光の祖先が死んだ時、遺骸を土地の神として祭る、巨大な塚が作られた。

友光は聞いていた。祖先は世界の遥か西、ペルシャから来たのだと。
中国ではない。

そしてはるか昔、このヤマトの一団を統べる巫女が、言ったのだそうだ。

ヤマトの一族よ、増えよ、この国に満ちよ。そしてその証しに巨大な塚を作り、
陸海の交通の道しるべとし、皆の安全と幸福を祈るのだ。

友光は思った。私は、この地の守護神の末裔だ。ここで頑張るはずだったのに、
今のこの情勢はどうだ。安泰の保証はない。しかし、行ける所まで行くしかない。

話に聞くヤマトの末裔って、武士らしく思われる。
しかし、伝説のヤマト族と今の武士というのは、違いすぎるではないか。
今の武士とヤマトの末裔って、一体どういう関係なんだ。

そこのところが、自分に伝説を教えた身内の、誰に聞いても、わからないのだ。

それに、同族として平和にやっていくはずだったのに、
誰もそんなことは知らないし、戦争して殺し合いばかりしていて、
平和も安全もありはしない。どうなっているのだろう。


風の息が、再び友光を強く吹きあおる。

大海の向こうから、南の海を回って、スペイン人が、巨大な船に乗ってやってくる。
この人々は、ペルシャを知っている。

この人々が持つ、世界の地理についての知識は、彼らの世界図で何度も見た。

ペルシャは、宣教師の風を装ったスペイン人技術者たちが、
ポルトガル海域を通ってくる際の途中にあった。

ペルシャ人というのは、自分が知る、大和の国の「人と成り」とは、まるで違うらしい。

自分の先祖はペルシャから来たと聞いているが、
それは今から1700年くらいも前のこと、
この島国日本の土着の人と一緒になり続けたら、痕跡も残るまい。

それに、この島国でそれほどの混血が起きたのなら、
故地のペルシャで混血が起きないわけもない。

元いた、元祖ペルシャ人、友光の先祖に当たる人々の、別の一団は、1700年の間に、
同じように、別の場所へ民族移動して、混血してしまって、痕跡を残さないのかもしれない。

元いたペルシャ人も、後から入って来た民族と混血してしまって、痕跡を残さないのかもしれない。

今ペルシャにいるペルシャ人と、自分の祖先とが、同じ人々であるかどうか、
これは確かめようもない話だ。

友光は、城の北に見える古代の大祭壇跡を見やりながら、
自分をはるかな大海の向こうとの交易に導いた、祖先の伝説に思いを馳せた。













しかし時代を下っての細川氏の混乱は、海部家にも苦渋の種となってきた。

阿波細川の御曹司を、宗家継承者としてかついで、
細川氏の家臣であった三好之長とともに行動して失敗した時、

三好之長が息子達の捕縛に心とらわれた気持ちは理解できたが、
祖先は、之長と一緒に死ぬ気にはなれなかった。

逃れられるのに、なぜ、つかまらなければならないのだ。

そんなの当然だと、三好之長の曾孫に当たる三好長慶は言った。
しかし長慶に対しては、海部としては、これもいささか心臆する出来事となっていた。
あのような失敗は繰り返したくない。

長慶は、友光に、後方支援を頼む、と言うのみだった。

そして三好長慶は堺で権力を強大化した。友光はその妹を妻にして、
後方支援にいそしんだ。
長慶は他にも、阿波国内で、婚姻関係で同盟を強めていた。

このような事情で、