e  海部氏の歴史

                           小説:スペイン太平洋航路目次


3世紀、ヤマトは日本各地の未知の土地に、探検隊を派遣した。
阿波海部は彼らによって、この時に発見された土地である。

比較的大きな川があり、その川が海に入る所に小さな島があり、
その島の周辺には、船着場として具合が良さそうな小さな湾がある。

その脇の、小さな島と岬の間を抜けると、両側に長く平行に伸びる山々に挟まれて、
「紐」のように長く、奥行きの深い湾があった。これが現在の那佐湾である。

海部川くらいに水量が豊かな川というのは、この海部を出て室戸岬を回って土佐へ向かうと、
奈半利まで見ることができない。

この3世紀までは、拠点から前進しては、居住に適した場所があると定住する、
というやり方をしていた。

しかし3世紀は、列島各地に足を伸ばして探検し、
全体の状況をつかむことに重点が置かれた。

海岸から離れず、天候や風や海流に注意しながら、決して無理をしない、
こういう慎重な調査によって、四国が、東の大海に面した島であることが確認された。

その内、西からも東からも一周できることがはっきりした。
この時、両側からの四国一周の海路の中継地点として、阿波の深奥部では、海部が目的地となった。

畿内・阿波方面から土佐へ向かう場合、阿波海部は、
一時休止に適当と見なされることになった。          *他地域産の土器、多数発掘

      *平成17年の海部・芝遺跡の発掘では、在地産の土器36個に対して、
        阿波97、畿内39、讃岐7・土佐3・吉備3である。

        これだけ多くの他地域産の土器は、徳島県内では他に見つかっていない。

5世紀になると、海部の地にヤマトの承認が下った。
やってきた技術者の指導の下、海上から見える大里の台地の上に、大祭壇が作られた。
それは二つこぶの葺き石の山だった。

            *現状では円墳ということになっている。
             しかし、わざわざ古墳の破壊を目指したが如く、道路を貫通させたことが、
             円墳だという認定に、疑問を抱かせる理由である。

             後に述べるように、徳島県史や地元史は、
             原史料を改ざんし、貶める行為だらけである。

             この現状では、こういう不審な開発を元にした認定は、疑われても仕方がない。


住民の一人一人が、全員、順繰りで少しずつ参加して出来上がった。
何しろ、参加することで、それぞれにご利益があると言うのだ。

こうしてヤマトの承認が降りたからには、全員でヤマト化して、
ヤマト他地域との交流を盛んにして、より良い暮らしを築かねばならない。

大祭壇の築造は、ヤマト連合に参加した地域であることの証明である。
ヤマト本部を中心にして、全国の交通・物流・情報のネットワークに参加することになるのだ。

住民全員の言葉のヤマト化も、祭壇作りとともに進行した。

友光の祖先は、ヤマト本部から下された、金冠と金環と金耳輪と玉飾りを添えて葬られた。
皆が土地の神の出現を寿ぎ、土地の繁栄と無事を祈った。

これでヤマト公認の土地となった海部は、海上交通の中継地として、重要度を確立した。


10世紀になると、祭壇墓の祭りはすたれたが、新たにできた神社は、京政権の延喜式に記録された。
紀貫之の『土佐日記』が書かれたのは、その少し後の935年である。

紀貫之は、土佐・奈半利でしばらく足止めの後、室戸岬を回り、太平洋側に出て一泊する。

どこで泊まったかは論争のあるところである。
『土佐日記』では、その泊まりの後、海賊が横行する海を、
夜間の決死航行で切り抜けたことになっているのだから。

だが、すでに中継地として確立し、元ヤマトに属する警備者がいたところは、
比較的安全なところだったのではないか、という推測のみに留めよう。

10世紀に、海部が中央政権から離反していたという話はない。


1290年代には、後に曹洞宗大本山総持寺の開祖となる、
瑩山(けいざん)紹瑾(じょうきん)禅師がやってくる。(総持寺は現在、横浜の鶴見にある)

海部郡司の招請でやってきた禅師は、城満寺を開山。
これは禅寺としては四国最古である。


1300年頃、江戸時代にできた本によれば、
海部刀が作られ始めたのはこの頃とされている。

江戸時代の本だから、どの程度信用できるかはわからない。
しかし、武器なら3世紀の探検の旅の始めから必要だったはずである。


1336年、足利尊氏は、細川和氏と細川顕氏に命じて、四国の勢力を集める。
こうして四国勢は、室町幕府成立に参画することになった。
友光の祖先も、応じた一人である。

しかし、細川氏が海部氏の本拠地を知っていたかどうかとなると、全く怪しい。

操船の巧みな戦力であり、非常に優れた刀を持っているのがひどく目立ったが、
本拠地までは、知る必要はなかっただろう。

海部氏の刀剣へのこだわりは、遠い祖先以来の伝統的な感覚だった。
武器なくして未知の土地へ立ち入ることはできない。
早くから刀工を抱えていた。

こうして海部氏は、本拠地が奥地であるにも関わらず、
戦力としては、それに不似合いな優秀さを示したのだった。


1352年2月25日、観応の擾乱のさ中、細川顕氏(あきうじ)の命令によって、
海部氏は京都警護に当たっていた。  

それは、現在国宝指定の「東寺百合文書」に、
現物の細川顕氏の命令書が残っているから確定している。
活字としては『大日本史料6篇』で確認できる。(図書館で見ることができる)     (参)

以下は当時の情勢についての概略である。

 南北朝の対立の中、鎌倉では尊氏・直義兄弟が戦っていて、
 京都を守っていたのは、尊氏の息子の義詮。
 
 南朝が京に対して進軍の様子を見せると、不安な義詮は南朝に対して和睦を申し入れる。

 26日、鎌倉では足利直義急死。近畿では南朝の後村上天皇が京へ向かい始めた。
 しかし、和睦にしては、京に近づく南朝の軍勢は非常に多かった。

 合戦の噂が飛び交い、情勢は非常に流動的だった。
 後村上天皇は、和睦のために京都に向かってくるのか、それとも戦闘のためか。

 その前日に、海部氏に対して、南朝が進む方向にある久世荘に行って、
 治安維持に当たるようにという命令が出ているのである。

 結局、南朝軍は京都に攻め入り、
 足利義詮を追い払い、北朝方の3上皇と親王を、南朝の根拠地へと拉致する。

 細川頼春は戦死。細川顕氏は落ち伸びた、
 足利義詮も近江まで落ち伸びた。

『太平記』では30巻あたりの話に該当する。
海部氏は出てこないが、細川顕氏が著名人として登場する。

この時戦死した細川頼春は、阿波守となった細川和氏の弟である。
和氏が死んだ後、細川顕氏と協力関係にあった。

細川顕氏の方は、海部氏に救出されて落ち延びた。          
                         (こういう所は全くの作り話だから気をつける)
細川氏と海部氏は、共に戦うことによって絆を深くした。


以後、細川氏との縁で、海部氏は、京都の幕府高官の目に触れる所に、
何度か登場する。

例えば『群書類従24』に納められている『相国寺供養記』。(図書館で見ることができる)
1392年のことである。

相国寺は、金閣寺・銀閣寺を抱える幕府の寺である。

その落慶供養の記録に、管領細川頼元に随従した武士たちの中に、
月毛の馬に乗った海部三郎経清が出てくる。

相国寺は京都五山の一つであり、室町幕府に隣接した寺域を持つ。
いわば幕府と一体の存在の寺院である。

当日の供養には将軍足利義満をはじめとする公家・武士が列席し、
寺内外は立錐の余地がないほどだった。とある。

これは1352年の東寺百合文書から40年後。
この2ヵ月後には、南北朝が合体する。これも重要な時期である。


次は1420年『満済准后日記』
8月3日に 「阿波守護 細川義之の若党「カイフト云者」が登場する。
海部氏に間違いない。

これは活字としては『続群書類従・補遺1』で確認できる。(図書館で見ることができる)

満済は醍醐寺座主。当時の仏教界の最高の地位を占めた。     

別名、「黒衣の宰相」とも呼ばれ、
義満・義持・義教と、3代の足利将軍の護持僧として尊崇されるとともに、
義持・義教将軍の政治顧問でもあった。

幕政の枢機に参画し、政事・外交に献策するところが多かった。

その日記は、1411年(応永18)、13〜22、23〜35(応永30〜永享7)にわたる。
自筆本。記述は詳細・正確。
当時の幕政・外交および社会情勢・文化を知る上の根本史料とされる。

このように海部氏は、幕府の上層部に、その存在を知られていたのである。

根本史料があるのだから間違いない。
しかしこの海部氏の中央政権との関わりは、地元には知らされることがなかった。

そして現代の有力著述家の手によって、貶(おとし)められ、無視され、軽視されている。

それはあたかも、それぞれの著述家に対して、海部貶めに加担するように、
と、要請でもあったかのごとくである。


ともあれ、こういう京都出張の間に海運力は増し、海部の豊富な木材は、重要産業となってくる。

1445年に兵庫港(現在の神戸港付近)で作られた、各地の船の、出入りの記録がある。

「兵庫北関入船納帖」というのだが、
それには、四国太平洋側でダントツ1位の56隻の入港数が記録されている。 

積荷は、製材された木材と出てくる。

製材となると、大きな横引きのノコギリが想像されるのだが、
これが当時は非常に貴重なものだった。
薄くて丈夫な鉄材を作って加工するのが難しかったのだ。

大型のノコギリが大陸から入ってきたのは室町時代とされる。

木の繊維を縦に引く小さなノコギリなら古墳時代からあった。
しかし、板を作るには、木にクサビを打ち込んで割る、という方法しかなかった。

加工木材が主力商品だったのなら、当地での製材技術も売り物の一つだったのだろうか。
海部刀生産の鍛冶技術でノコギリが作られて、それで製材されていたように見える。 
                              *1445年、阿波・土佐の主要港

この1445年の兵庫港の記録は、瀬戸内海の海上交通ばかりが取り上げられる。

太平洋側の海部は、消されたり無視されたりして、不当な扱いを受けているが、
本物の記録には、太平洋側の海部船の活発な活動が、
しっかり記録されているのである。

              *ここで注意していただきたいのは、皇太子殿下のご専門が中世海運で、
              卒論もズバリ兵庫北関入船納帖に関するものだということだ。

              皇太子殿下の目に触れてはいけないとばかりの、
              削除、おとしめ、無視、軽視の多いことには、
              公正と事実探求という意味で、極めて注意する必要がある。

活発な活動にも関わらず、大勢では全く人目を引かずに来た海部だったが、

1468年、幕府・細川の遣明船が、太平洋側の航路(南海路)
を取ったため、突然、その本拠地が、脚光を浴びることになった。

1467年、応仁の乱勃発。
博多商人と結んだ中国地方の大内氏が、遣明船の帰途、瀬戸内海の航行をはばんだ。

大内船は瀬戸内海の通行を許されたが、幕府船・細川船は、遠路はるばる、
南九州・土佐を回って帰るはめになった。

未開拓の航路を、危険をかいくぐりながらの航海だった。

古くからの友邦、阿波海部の援護が頼める海域に到達した頃には、
両船とも、操船が怪しくなるほどの傷み方で、
積荷をすべて海部で積み替えて、ようよう堺に舞い戻ったのであった。    (参)

この時から、幕府と細川氏にとって、海部の港は、
急速に秘密基地の様相を帯びてきた。

それまでは、海部氏の本拠地が、実際に余所者の目に触れることは、
滅多になかった。

しかし幕府関係者・細川氏関係者、そして堺商人の関係者までもが、
海部氏の本拠地を垣間見ることになった。

海部は、刀剣の産地でもあった。
戦国時代末期までに刀工66人を輩出し、その刀剣は海部刀と呼ばれる。  
遣明船貿易で利潤が大きかった重要産物は、刀剣だったと言われている。

これまでの経緯からすれば、遣明船に乗せられた海部刀も、少なくはないだろう。
                                        (参)

その海部の本拠地が、こんなところにあるなんて。
皆が目を丸くしてしまった。

「この度の大内氏の所業はひどいものであった。
しかしそのおかげで、南の海の航路というものがある、ということが、
しっかりわかったぞ。」

「琉球船は毎年のように来航しているが、
古老の話では、それは60年以上も前からだそうだ。    (参)
南海路を取れば、琉球の動きも、知ることができる。

今回の迂回でも、琉球人には、随分世話になった。
九州南部の海は、琉球人には自分の庭と同じだ。

そして彼らは、はるか南のシャム(タイ)やマラッカ、<ベトナム>、
まで足を伸ばして、明に交易品を運んでいるのだ。

明はできた頃(1368年頃)に鎖国政策を取った。
琉球が活躍しているのはその頃からのことだ。
つまりは琉球人が、明の貿易の肩代わりをしていたようなものだ。

堺から南九州へまわって琉球と結べば良い。
明以外の、南の国々と交易する機会があるだろう。」

「そうだ。そのためには、まずは間近な海部の港が、非常に便利だ。」

南海路は、これを皮切りに、その後度々、遣明船の航路として使われた。

その都度、堺の関係者は琉球人との情報交換に余念なく、
南方方面との交易情報を収集し続けた。

南方方面への関心は、南海路沿いの一部の人々の間で、
次第に恒常的なものとなった。もちろん海部も例外ではない。

そしてついには自分たちで船を用意し、琉球人を水先案内人として、
南方へ乗り出して行く者が現れた。

刀剣は、南方でもよく売れる商品だった。武器は南方でも必需品だったのだ。

戦乱の世を乗り切るために、武士たちは資金の調達に躍起だった。

はるばるマラッカまで出かけ、実演販売して住民を怖れさせ、
ゴーレス(刀剣)とあだ名されたのは、こうした武士たちである。     (参)