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小説:スペイン太平洋航路目次
海部友光は、鉄砲射撃の名手、栗原伊賀右衛門に言った。
「ポルトガルがマラッカを陥落させたと伝わってきた時は、
皆が本当にびっくりしたらしい。
あの時から、その無理やりな進出ぶりは心配だった。
今に我々の所に響いてくるに違いない、と思ってね。
しかし今こうして、我々が、その競争相手のスペインの手助けをするなんて、
(先祖)は夢にも思わなかっただろうよ。
東へ向かう風がある、と、教えたのは我々だ。」
伊賀右衛門が応えた。
「ここで船を作ってメキシコに向かうなんて、
彼らにはちょっと、想像もできなかったことのようでしたね。」
友光
「いい提案だったと思うよ。彼らにとっては危険が少ないし、
費用もかからないし、
我々は彼らの知識や技術を学ぶことができた。
全くのゼロから始めて、これだけの知識が吸収できたなんて、
こんな喜ばしいことはない」
伊賀右衛門
「ここはスペイン人の寄航には好都合です。大きな取引になりましょう。
マラッカでは、我々が売り込んだ刀が、全く役に立ちませんでした。
ポルトガル人が皆の交易の場所を戦争で滅茶苦茶にしてしまったので、
周辺の者は、しばらく誰も寄り付かなくなりました。」
友光
「あれから50年くらいたったなあ。
我々も一生懸命、南蛮人が持つ武器の調査に努めた。
しかし、秘密が手に入るまでには、随分と時間がかかった。
向こうが用心深いのは当然だが、大変だった。
種子島殿は本当によくやってくれた。そして技術者たちも。
鉄砲作りが堺に渡るのは、アッという間だった。
瞬く間に大量の鉄砲が世の中に行き渡るようになった。
ここでも、かなりの者が、刀作りから鉄砲作りに移った。
スペイン船が来た時に、彼らが上陸して攻撃するようなことがあってはならない。
我々もしっかり対策を練らねばなるまい。
それはそうと、おまえの組の鉄砲討ちの訓練はどうだ?腕は上がったかね?」
「もちろんでございます。」
1511年のマラッカの陥落は、東南アジアの海上を行き交う人々を、震撼とさせた。
琉球人はもちろん、彼らの間を縫うように東南アジアへ出かけていた日本人も、
青くなった。
琉球人も日本人も、日本刀で大きな利益を得ていた。
だから、日本刀の武器としての効力が根本的に揺らいだ、この重大な事件に、
到底、目をつぶっていられなかった。
このままでは、我々の信用が落ちてしまう。我々の安全も確保できない。
そして何とかして、東南アジアの顧客をなだめなければ、我々の面子が立たない。
鉄砲や大砲の技術を、手に入れなければならない。
1513年、ポルトガルは、早くも中国南部のマカオにやってきた。
そして、またもや大きな事件が起きた。1521年、フィリピン。
言うまでもなく、マゼランのフィリピン到着である。
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このマゼラン遠征隊は、ルソン島に、年間6隻から8隻の琉球船がやってくる、
と、その報告書に書き残した。
(*)『マゼラン最初の世界一周航海』岩波文庫p139
「レキーの住民たちが6隻から8隻のジャンク船で
毎年この島(ルソン)を訪れる」
注には「レキー」が琉球を意味するとは書いてないのだが、
当時の東南アジア海域の交易事情全般から判断して、
「琉球」であろう。
琉球が来ているかどうかに興味があった、ので記録した、と考える。
琉球人なのか日本人なのか、見分けのつかない住民は、
刀剣を持ち歩くそれらしき船を、皆「リキウ」と呼び、また刀剣をも「リキウ」と呼んだ。
リキウではないが、日本刀を持ち歩く別の人々がいるとわかった者たちは、
その人々を、現地の言葉で刀剣を意味する「ゴーレス」と呼んだ。
1511年のマラッカ陥落の際に作成された、
ポルトガル人トメ・ピレスの『東方諸国記』には、
リキウとは別に、刀剣を売るゴーレスの存在が記されている。
日本人が当時すでにマラッカにまで出かけていたというのは、
これまで日本人研究者達からは、あり得ない、と、完全に無視されてきた。
『東方諸国記』の書き方に、日本人は海洋民ではない、と書いてあるように見えることや、
日本側からの史料が出なかったことが原因である。
したがって、ゴーレスはリキウ(琉球人)である、ということになっていた。
しかし、太平洋航路開拓に果たした宣教師たちの役割を考えれば、
日本人の航海力に言及しないのは当然である。
日本人の航海力を大きく見せると、秘密航海の源泉が日本にあることが、
ばれてしまう恐れがあるのだから。
そしてスペインの秘密航海に関わった日本人の側からは、
航海力を否定する材料が流されはしても、
航海力があった、などという情報が、流されるはずもない。
彼らは、記事にされたゴーレスと同じく、どこから来たかを語らない。
そして、どこから来たかを特定できるような船も使わない。
琉球船や中国船と同じ船しか使わなかった、とすれば、
ますます特定が難しいだろう。
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マゼラン到着を、鋭い嗅覚で嗅ぎつけたのは、日本人武士だった。
東南アジアの海上を、救援を求める声が飛んできた。
マクタン島の首長ラプラプは、ゴーレスが悔しがって、
情報収集に余念がなかったのを知っていた。
そして何かあったら連絡して来るように、と言われていたのだ。
セブ島で、マゼラン隊が、王をいいように振り回していると聞きつけた武士は、
マクタン島の首長ラプラプに、恐れるな、かくかくしかじか、と、
戦闘の心構えと作戦を入れ知恵した。
一方、フィリピン人と友好を結び、キリスト教に改宗させることに成功したマゼランは、
案外、うまく行くではないかと思った。
マクタン島の首長との争いの話を聞いても、さほど危険を感じる理由はなかった。
大砲と鎧と鉄砲に、みんな恐怖したではないか。
この装備に恐怖しない者がいる、というような気配はない。
しかし彼を待ち受けていたのは、
マラッカ陥落の報を受けてポルトガル人の武器を研究してきた、
戦争慣れした日本人武士だった。
鉄砲など、飛び道具が届かないように、巧妙に罠をしかけてあるのに、
マゼランは全く気がつかなかった。
こうしてマゼランは、日本人武士の作戦にまんまと引っかかった。
彼の強い責任感と勇気、剛直な気質は、さらに彼を追い詰めた。
彼は、恐れないフィリピン人たちの恰好の標的となり、命を落としてしまった。
この大事件で東南アジア海域の情報をかき集めた結果、
世界の果ての隣り合う二つの国が、
西周りか東周りかで、世界を征服しようと競争しているらしい、
ということがわかってきた。
フィリピンに来た征服者は、スペイン側だとわかった。
しかしこの時はまだ、大海の東に、行く手をはばむような長大な大陸があることも、
スペイン人がそこへの帰り道を探していることも、わかっていなかった。