G、太平洋帰還路探検航海
小説:スペイン太平洋航路目次
マゼラン艦隊は太平洋を西に向かって航海した。
そしてフィリピンや香料諸島にたどり着いた。
しかし、香料諸島からさらに西に向かって、インド・アフリカ廻りというコースは、
ポルトガルが支配する海域である。
片や、南北アメリカ大陸はスペインの進出著しいものがあった。
そして太平洋は誰もいない海なのだ。
だから彼らは、できることならフィリピンから、太平洋を東へ横断して戻りたい。
しかし、東に向かう風を見つけるのは至難の業であった。
太平洋帰還路探検にかかわる航海は、5回行われた。
第1回・1521年マゼラン艦隊(スペイン発)、
第2回・1525年ロアイサ艦隊(スペイン発)、
第3回・1527年サーベドラ艦隊(メキシコ発)、
第4回・1542年ビリャロボス艦隊(メキシコ発)、
第5回・1565年レガスピ艦隊、(メキシコ発)
航路発見に成功したのは5回目であった。
第1回から第3回までは、かなり悲惨を極める航海だった。
自力で帰れたのはマゼラン艦隊のビクトリア号、18名のみ。
しかし、ポルトガルの捕虜となって香料諸島に滞留した者たちが、
帰還を許されて1533年以降にポルトガルルートで帰ると、
それも経験の蓄積となって行く。
注目すべきは、この帰還者の中に、
後に帰還路の発見者となったロアイサ艦隊所属のウルダネータがいたことだ。
8年の滞留の間に、彼はシパンゴを探して奔走したが、徒労に終わったと言う。
国家間同士の交渉はいろいろあったけれども、
スペインの探検は続行された。
興味深いのは1542年のビリャロボス艦隊である。
東向きの風を発見できなかったビリャロボスたちは、
1545年11月4日にポルトガル側に投降した。
直前に、ポルトガル人に混じって、彼らの間を自由に動いている、
ペロ・ディエスという名のスペイン人が訪ねてきていた。
彼によると、ここへ来る前の年(1544年)に、日本の九州らしきところへ行き、
そこへ、中国人のジャンク船で、ポルトガル人が集まって来ているのを見た、と言うのだ。
そして1546年、アンボンで、フランシスコ・ザビエルはビリャロボスを看取る。
ザビエルとビリャロボス艦隊に接点ができる。
1547年12月、ザビエルは3人の日本人に会い、是非日本へ行きたいと思う。
こういうわけで、ビリャロボス艦隊では、急速に、
日本との関わりが強くなってくるのである。