古墳時代と天皇家
NOTE
歴史は事実を扱うものである。
今井登志喜言うところの、本体的整頓(物質世界の事実)と論理的整頓(情報世界の証言)が、整合性を持って位置づけられたものを扱う。
神話や伝承は、それが書かれた時点において、「書かれた」という事実に該当するが、「内容」が事実であることにはならない。
『古事記』はネット情報によれば、どれも最古の写本は南北朝となっている。
南北朝時代というのは、現物の古文書が多数現存している時代である。
(以下の偽作・改ざんの可能性について、『古事記』は真正の古代語の反映であり、偽作はあり得ない、
という反論を2通いただいております。
私も後半で『古事記』に史実の反映を読んでいる部分もあり、論理的には混乱したままであることは認めますが、
論理の整頓には時間がかかるので、そのまま放置しております。
私は、何らかの原典があるものの、前方後円墳築造動機の削除など、改ざんの可能性は大である、という立場です。)
そして、南北朝双方が、互いにその正統性を争った時代である。
それは、天皇と武士の戦いという側面もあった。
その時代に筆写された天皇家の権威付けの本というのは、時代の要請を考えれば、内容の作為の可能性は、十分あると考えなければなるまい。
戦国時代の実例では、数十年後から、錯誤や虚偽が見られる。
南北朝時代の人々が知りうる過去とは何であり、それは何によるものか、考える必要がある。
『古事記』で一番気になるのは、「物質世界の事実」である、全国に5000基以上ある前方後円墳の存在と、全く整合性がないことである。
これについては、『日本書紀』も同じである。
私たちは、新幹線が開通し、車が走り回るようになってもなおしばらく、
前方後円墳が全国に5000基以上あるという事実でさえ、知ることができなかった。
これを考えると、南北朝時代の人が、800年前の古墳時代の、前方後円墳の全国築造を、知らなかった、というのは自然な感じがする。
それに対して、全国築造を、知っていて黙っていた、と考えるのは不自然な感じがする。
これについては、『日本書紀』も同じである。
前方後円墳は、発掘された遺物から考えると、相互に関連性があり、独立に築造されたとは考え難い。
この時代の司令塔ならば、そして証言が、その権威付けを意図に含むなら、なお、言及するほうが自然である。
しかし、前方後円墳の全国築造の司令塔としての言及は皆無である。
これは要するに、天皇家の支配は、古墳時代までは、さかのぼらない、ということの傍証ではあるまいか。
とにかく、天皇家が古墳時代にも支配的な立場にあったという証拠は、今のところ、あるとは言えないだろう。
私は、日本社会において、その政体はかくあるべきとか、文化はかくあるべきとか、そういうことに言及することはできない。
人の思いや相互関係というものは、私に扱えるようなものではないからである。
しかし、少なくとも、明確にできることを明確にし、その上でそれらについて考えるべきだと思うのである。
明確にできることを避け、流れに押されることを恐れる。
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日本史事典などで、古事記は日本現存最古のもの(角川日本史事典・昭和50年版)と書いてあったし、学校でもそう習ったので、
私は比較的最近まで、712年成立当時の現物があるのだとばかり思っていた。
そこで私は、記紀と前方後円墳事実との食い違いについて、
前方後円墳がなぜ、誰によってその築造が推賞され、どれほどの規模で行われたか、
それを天皇家は、知っていたけれども、
記紀には書けなかったのだろう、という見解を取っていた。
712年の現物があるのなら、最後の前方後円墳からさほど時間が隔たっていない。
この時期なら、日本中が土煙を上げていたかのような熱狂?を知らずにいられるわけがないので、
書くわけにはいかない事情があったのだろう、という見解だったのだ。
その事情とは、やはり支配者の交代しか考えられなかった。
ところが、ネットで調べると、最古の写本が南北朝時代とわかった。
これで考えは、一気に偽作の方へと、傾いてしまった。支配者の交代は勿論のことである。
記紀に古墳時代の全国的熱狂への関わりが記載されていないのは、その必要がないからである、と聞かされたことがある。
自家のことを書くのが第一で、他家のことなどどうでも良い、と、当時の天皇家関係者は考えた、と言うのだ。
しかし、現状がこれでは、かえって、天皇家は、古墳時代には、時代と関係がなかった、と、言うようなものである。
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天皇家は国ができた時から支配者だった。
しかし、現代に至るまで、極めて特異な痕跡を残すことになったほどの、国家的活動(古墳築造・前方後円墳築造)は「知らない」「書けない」。
これで済ませるのは、為政者として不思議だ。
万葉集には、防人の歌さえ採用した、心の広い天皇家、と学校では教えるのに、
前方後円墳に対する天皇家の姿勢は、それとは全く矛盾する。そのことについては、注意喚起しない。
350年間も、夥しい人力と財力を傾けて作り続けた前方後円墳の時代は、現代も、その物量でもって私たちに迫ってくる。
天皇家が時代のリーダーだったのなら、前方後円墳の時代への関与を、語るのではないだろうか。
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逆に、「天皇家は、古墳時代を否定する姿勢だった」ということならたくさんある。
まずは大化の改新の翌年(646年)の薄葬令。大きな墓は作るな。
次に目に付くのは礼装の変化。古墳時代は大陸風?で比較的動きやすい様式だったのに、和風?の運動を無視したような様式へ。
乗馬ではなくて、牛車移動に。
古墳時代は「金」と「
前方後円墳を「護国の神」としての祭礼様式のひとつとすると、天皇家は仏教寺院で「鎮護国家」を祈った。
(広瀬和雄氏は、『前方後円墳国家』角川書店・2003年で
「亡き首長がカミになって共同体を守護する」との共同幻想が前方後円墳を生み出した(p112)、という説を唱えておられる。
「死した首長に、もうひと働きしてもらおうとの、生きている人々の強い意志が読み取れる(p111末)、と言う。
考古学者が考えるその根拠が述べられているので、参照されたし。ただし「護国の神」というのは、私の言い方。)
(雑談だけれども、自分が死んで、神となって共同体を守るんだ、という発想は、戦前の特攻隊思想に限らず、
徳川家康だってそうだったし、日本では、戦前まで、その辺にふわふわしていた普通の思考様式だったと思う。
自分が神となる、これが他の宗教とどれほど違うか、考えたらわかるではないか。日本特有ではないだろうか。
ピラミッドはどうかなあ?
前方後円墳は「護国の神」祭祀だろうというのは、5200という数にもふさわしいように思える。
そう考えると、自家が生み出した「護国の神」祭祀を打ち捨てて、仏教寺院で「鎮護国家」を祈るというのは、ちょっと変。
これまた、政権交代ではないか、という気がするのだ。
前方後円墳祭祀を否定するために、またさらに、国力を傾けた巨大な仏閣・大仏が必要になる。
前代と後代の、権力の相克に、見えないこともない)
で、全国に散らばった前方後円墳の被葬者の子孫はどうなったのか。
私は、武士の先祖になったのだと思う。
氏姓制度から律令制へ。大王から天皇という呼称へ。これらも、前代否定だろう。