日本語の起源

                                         NOTEへ戻る

 日本語の起源を探ると言うと、他言語との比較が専らのようである。
しかしここでは、考古学資料に見る人間の活動との関連を考える。

 かつては、大陸から渡来人がやってきて弥生時代が始まった、という説だったが、
今では、米の栽培を弥生時代とするならば、米の栽培自体は、もっと古くからあったと言われている。

 ともあれ、弥生時代に何らかの渡来人がやってきて、その影響で日本社会が大きく変わったというイメージは、
私たちの間にずっとあり続けたものなのだが、その話はそれ以上展開することがないまま、
他の、テーマを別にする多くの話と並存した状態である。

 私はここで、「ある種の渡来人」と「日本語」との関係を考えたい。
この「ある種の渡来人」というのは、日本語の起源となった言葉を使い、後に日本中にその言葉を広げる活動を行った人々の、
祖先となった人々である。

 広瀬和雄『前方後円墳国家』角川選書2003年には、以下のような話が出ている。

******
 弥生社会は、(1)大多数の農村と、(2)寡少な「専業工房」と、(3)それらを統合するための中核的役割をもった拠点集落=「弥生都市」、
とで構成されていた。

 これらを有機的に結合したのは、「もの・人・情報」の「首長ネットワーク」であって、その中心には大首長が位置した。
こうした「弥生都市」を中核にした地域社会同士は、それぞれを統率していた「大首長相互の互酬システム」で運営された。(p55)
******

 縄文時代や、「ある種の渡来人」が到来する前の弥生時代には、集落の成員の各々を考えれば、
単発的な移動はともかく、恒常的には、移動交流の少ない集落生活だったと考えられる。
従って、言葉がそれほど一致しなくても、交易を主眼とする交流だけなら、さほど支障はなかったと考えられる。

 この状況は、近代に至るまでの、世界の多くの多言語社会を想起すれば考えうることで、
弥生時代には、日本も相当の多言語社会だったのではないか、ということを、私は思うのだ。

そこへやってきたのが、後の展開を考慮して思うには、文明興亡する大陸事情に通じた遠来の渡来人である。

 彼らは、旧来の土着の縄文系弥生人とは、その歴史的背景に雲泥の差があった。
大陸の文化文物に通じた彼らは、首長層に迎えられて弥生社会に溶け込んで行った。

 遠来の人々の子孫は、日本中を探検して歩いた。そして各地の首長層との通婚を通して、弥生社会との結びつきを強めた。
これが『古事記』に反映している話ではなかろうか。

 こうしてできてきた新たな弥生社会は、いわば、交通路と拠点集落を結んだ、点と線でできた社会だった。
そこへ中国大陸との接触が発生した。

 祖先から伝わる?大帝国に飲み込まれる危機感と同時に、強大な文明を取り込みつつ、
自らの独自性と独立性の保持の必要を感じたことが、前方後円墳を築き始めたきっかけではあるまいか。

 「亡き首長がカミになって共同体を守護する」との共同幻想が前方後円墳を生み出した。(広瀬・p112)

 とされるが、この掛け声によって、大陸の強大な圧力を跳ね返す一助としての巨大建造物が作られ始めた。

 前方後円墳の築造は、地元住民だけではできない、というところに、大きな変動要因をはらんでいた。

 つまり、物や技術の移動だけではなく、技術者や労働者の、広範囲かつ長期の相互移動が予想されるのだ。
それが、社会の上層部にとどまっていた言葉が、末端にまで浸透するきっかけを作ったのではないだろうか。
私が考えるのは、そういうことである。

 日本語と日本意識が、元寇の際に結束力を高めたことは、言うまでもない。 

 広瀬著の前方後円墳に関する記述では、後の天皇家の姿勢との比較の意味で、他にも気になることがある。

 「3世紀中ごろに創出された前方後円墳は、
西日本各地に割拠していた弥生時代後期後半の首長墓の構成要素を素材とし、
それに中国思想を加えて統合し、飛躍させたものである。(p121)」

 前方後円墳は弥生時代との連続性を保っていたのに、天皇家の施策は、前方後円墳の時代との隔絶が目立つ。

 600年代、日本の全国各地、どこへ行っても、
共同体守護のためのカミとなった首長が眠っている、大きな墳丘があるのだ。

 人々の心の中に、共同体守護の意識とともに、その時代を統括した大王系譜の影響が残っている。

 そういう時に、天皇家は、大王の呼称をやめて、天皇という呼称を採用し、前方後円墳祭祀を否定し、
全国各地、遠隔地にまで及ぶ氏族の存在を、否定する施策を始めた。

 弥生時代の首長層が、前方後円墳時代の地方首長(地方豪族)になり、
それが氏姓制度で「国造」に任じられ、

 律令制では、氏族という形での身分保障ではなく、中央派遣の「国司」の下に位置する、「郡司」あたりが、
地元の氏族が受け持った位置だろうか。
(かなり変動もあるだろうけれど、地方を治める制度の中の位置で考えれば、該当位置の変遷ではこうなる?)

 弥生首長→前方後円墳首長→「国造」→「郡司」

 交通路と、大多数の農村と、専業工房と、拠点集落という、経済活動の要素は変化しつつも継続していて、
地元では、行政や治安維持活動などの職掌は、継続しているはずである。

 同じ氏族による職掌の継承かどうかはわからないが、
「郡司」というのは、多くは武士に転化していく層ではないだろうか。

 というよりも、前方後円墳の時代から、地方行政や、戦争や抗争など、国政上の武力行使義務に対応し、
最初から武装していた職掌ではないだろうか、というのが大きな疑問なのだ。

 郡司は武力を持たない行政官であって、武力行使には別の職掌があったのかどうか。
大きな話なのだけれど、警察権を持つ独立の職掌があったということは知らない。

 前方後円墳時代、首長間で激しい格差があったものの、
大王は王の王であって、理屈上は全くの別格という意味ではなかった、ように思える。

 しかし、律令制では、天皇は天皇だけだ。理屈上は全くの別格である。
この理屈の途切れ方も気になるのである。

***
 前方後円墳の時代があることで、極めて少数者の言語でも、社会を圧倒する可能性がありそうに思えるのだ。
征服王朝でもなく、言語強制政策がなくても、そういう可能性がありそうに思う。

 それは、中国辺縁にありながら、中国語とは全く異なる種類の、大きな言語集団ができた理由として、
おもしろい、と思っている。言語学者は誰も、そういう理由については全く考察してくれないから。
 
 原初日本語の元となる言葉を話していた人は、どこから来たのか。

どこから来たのか、にわかにはわからなくても、「稀有な到着」があれば、
それで十分可能になる、ということが予想できるのではないだろうか。

 そして、巨大古墳の大きさと数について言うならば、

墳丘の長さが200メートル以上の巨大な前方後円墳は、35基の内32基が畿内に集中し、
302基ある超100メートル古墳の内、畿内では140基(広瀬p137〜)、

 と、畿内に集中しているが、朝鮮王墓を、数と規模では圧倒し、
対抗意識をもってするのは中国本土ではないかと思われること。

 とすると、大王系譜の人々は、朝鮮から来たというのも、当てはまらないような気がする。