本の世界と自分の世界
                                         2013年9月11日
                                                        雑文へ戻る
                                           

私は多分、戦争と社会の危険については、人並み以上に早く考えるようになって、
考えがついて行く限りにおいては、
ハイレベルな次元で、「危険」というものをかんがえるようになったと思う。

しかしそこには、日常の成長過程での人間関係の危険というものをどう考えるか、
という知識は、全く欠けていた。

私の頭の中を占領していたのは、「誰とでも仲良くしましょう」というお題目と、
もめごとを起こしては、自分の評判が悪くなる、という認知であった。

  私の目には、全く、さえない以上の存在である男子が、
  私一人で座って読書中のところを狙って近寄ってきて、「話をしよう」と声を掛けてくる。
  さらには、自分の相手をしようとしない、という、それだけのことで、
  力任せにたたく。
  あげくに、自分は何もしていない、と、それが真実そのもの、であるかのように言う。

私は、これを子供の頃に、どう表現したら良かったのかと、今も考える。

たったこれだけのことでも、タブーと思われる表現が含まれている。
「私の目には全くさえない以上の存在」なんて、書いていいことかどうか。
ここでそこまで書くには、何か「エネルギー」とか、タブーをぶち破る力が、必要である。

そして一連のことが、一通り発生してしまったことで、事はさらに表現しにくくなった。
「嫌な奴が寄ってくる」くらいなら簡単だったのに。

こういう場面は、子供の私の知識の中にはなかった。
それ以降、発生した一連の大人たちの反応も、私の読書的知識の中にはない。

私が本を通じて知っている大人というのは、もっと理解力・包容力があって、
柔軟に対処する、心の温かい人々だった。

しかし私の経験は、他で書いた通りで、これでも人間か、と思うような反応をする。

これでも人間か、という点では、すでに歴史となった、
戦前の人々が、一致協力して奉安殿の祭祀を守ったことと、
何も変わらないのではないかと思う。

つまり、読書で知る人の「心」というのは、実際の社会では、一部でしかないだろう、ということなのだ。


保育園で読んでもらった数多くの紙芝居、絵本、イソップ、グリム、

師範出の伯母の家からまわってきたらしい、講談社世界子供文学全集?の、
小公女・小公子・家なき子・家なき娘・乞食王子・ああ無常・愛の妖精・サイラスマーナー、

悪い奴、嫌な大人、変な社会が出てきても、
著者の意図は「良い人間」を描きたいということだ、くらいはわかる。


寺島弘隆はいやらしい男だった。

他人を受け入れられないのは心の狭さ、と教えて、
男女二人を隣同士に座らせて、教壇から観察するなんて。

周囲の男子たちが(男子たちだった)、アッと顔色を変えるのを尻目に、
男は嬉々と寄ってくる、教師は冷たい目でそれを見送る。

何なのよ、これ。男は成長して体が大きくなってきている。女子に男を接近させる教師。

性的嫌がらせが、混じっているのではなかろうか。
これが、教室である。何を信頼すればいいのだろうか。


歴史学では、当座の証言が一番信頼できるということになっているが、
昔は理解できなかったことが、何十年も後でわかってくる、という、私のような例もある。

私は、永遠に書き残すのだ。
教師が公権力を振りかざして子供をつぶす実例があるということを。

日教組や教育委員会の、
「教師はすべての子供について、良かれと思って事を運ぶのだから、親や子供は黙れ」
というような、一方的な言い分に、踏み潰されてはならない。


中国共産党は当然無宗教で、ソ連の援助は求めやすかろう。
中華民国の蒋介石夫妻がキリスト教に改宗して、妻が演説でアメリカから援助を取り付けたのは、知られた話。
一方、日本は、神国日本というわけで、唯我独尊スタイル。

日本の宗教政策が、国際関係や戦況に及ぼした影響の話は、しかし、聞いたことがない。
右派も左派も、忘れているのだろうか。これも、非常におかしいと思う。