i.ハルマヘラ島の戦い
小説:スペイン太平洋航路目次
伊東章『マニラ航路のガレオン船』p72
1545年11月23日、準備の整ったポルトガルの船隊が、二人の隊長に指揮されて、
テレナテ島からハルマヘラ島へ向かった。
そして住民の抵抗なしに上陸すると、一隊は集落の近くに陣と大砲を据えた。
さらに、城壁からの石弾が届かない、城楼に面した場所に、
いくらかの小砲と火縄銃兵を配置した。
しかしこの時、城壁から矢が飛んできて、外の者に甚大な被害を与えた。
城壁の外には、狭くてあまり深くない濠があった。
そしてその中に、膝小僧まで達する大小の大量の有刺、つまり竹を尖らせたものを、
石弾が届かない距離まで、周到に周囲に巡らせている。 (これが逆茂木でなくて何だろうか)
有刺の間のごく細い道を、集落へと一旦入ると、
苦労しないと抜けられない地面へ突っ込んでしまい、
回避できても、周りに薪があるから、攻めれば焼死していたかもしれない。
もう一人の隊長は、ソサの背後でもっと離れて陣を張り、
集落から小砲の弾丸が飛ぶ距離の位置で、13日間、ハルマヘラの包囲を続けた。
島民はポルトガル人10人とスペイン人一人を殺し、20人以上を負傷させた。
この時犠牲になったスペイン人というのは、
先に、ティドーレ島からテレナテ島のポルトガル陣営に逃亡した人々の内の一人らしかった。
ポルトガル人は、この間、集落を偵察もせず、どこを攻略して損害を与えられるかを、
検討することもしなかった。
ただ時間を浪費して、陣のある場所にいたに過ぎない。
それに比べて島民は、たまに城壁の外の者と小競り合いに出たし、
夜間に出て火薬の鍋をぶちまけ、幾人かのポルトガル人を焼死させた。
当初からソサは、城壁を破壊すべく砲撃を試みたが、
内部の者が被害箇所をとても器用にすばやく修復したため、
それすらも役に立たなかった。
ハルマヘラ島の王は、あらゆる危険に身をさらし、
全生涯をキリスト教徒との戦いに費やしたかのごとく、
充分に気配りしてすべてを命じ、賢明に指揮を執ったのは明らかだった。
このように、包囲は全く効を奏していなかった。
内部の者に生じた大被害で、ポルトガル人隊長たちの間に亀裂が生じた。
そして、相手は考えていたより手ごわく、戦闘すれば身を危険にさらす、との意見で一致し、
撤退して包囲を解く決定をしたのだった。
こうして、戦いで行うのを常とする、戦闘も偵察もせずに13日間の包囲を終え、
ハルマヘラ島の王が大勝し、名を挙げたのだった。
戦況の報告を受けつつ、ティドーレにいたスペイン人隊員たちは、半ば呆然とした。
そして、ビリャロボスに詰め寄った。
先日来のビリャロボスの態度は、何か変だ。
この戦争の結果と、何か関係があるのか。
ビリャロボスは隊員たちに、手短かにペロ・ディエスの話をした。
背後に日本人がいるのだ。
彼らはマラッカではゴーレスと呼ばれていた人たちである。
そして彼らは戦争慣れした人々である。
この度の戦いで、彼らの実力がよくわかったではないか。
その彼らが、東へ向かう風がある、
船の作り方と操船の仕方を教えてくれれば、
共に太平洋を渡ってみよう、と言ってくれているのだ、と。
だから、我々がここにいても意味はない。
帰還路探索に関しては、作戦の練り直しだ。
日本探索については、ペロ・ディエスに、当てがあると言う。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルという人物が、マラッカに来ているそうだ。
スペイン人である。
ペロ・ディエスが、ザビエル師と我々がアンボンで会えるように、手配してくれるそうだ。
彼は既に、その人を知っているのだそうだ。