生きている世界を認識する方法
                                                         2013年9月9日

                                                    雑文へ戻る

生物としての「人」は確かに、1個の受精卵から出発して、
細胞分裂しながら周囲の物質を取り込みつつ成長し、
複雑な器官を持つ膨大な数の細胞の、一集合形態という、「体」を持つまでになる。

しかし「人」は、自分が生きている世界を、何によってどのようなものと認識するのか。


 私は、人生の初期において、
 自分の体が持つ大きさが、宇宙空間的な大きさ比較の世界で非常に小さく、
 物質空間としての世界が巨大であるということを、

 「自分の家が点より小さく見える視点」というものを、繰り返し想像することによって考えた。

 その私からすると、生きている人を、神として拝んでいる戦前の社会というのは、
 とても不可解だった。

 人は、祖母が教えた地図の世界では、あくまでも「人」であって、
 別にそう大きくもなければ、超能力のような特別な力を持っているわけではないだろう。

 実際、超能力がある、というような話は、全くないようだった。
 何か天皇に、「人」と違う何かが備わっていたのか、と、感覚を研ぎ澄ましてみたのだ。

 天皇が日本の根幹におられるから、日本は国として成り立って行くのだ、という「話」はあるようだった。
 しかし天皇その人に、「人」として何か特別に変わった力でもあるのかと言えば、
 特に変わったことは何もないようだった。では、どうして「神」なのだろう。


奉安殿の話を、いつ誰から聞いたのか、覚えていない。漠然とだが、
母から聞いて、それを手がかりに、メディアや学校の先生からの情報を、
それについて抜粋しては、常に再確認していた、というようなところではないかと考える。
ネット辞書で確認したのは昨日のことだ。

私は、小さい頃に自分が確実なこととして選んだことから出発したが、
他の人の場合はどうなのか、ということについては、まだ知ることができないままだ。

私からすると、戦前、天皇を神として動いていた社会は奇妙だと思えるし、
そう思っていた人もいないわけではないだろうけれど、

そう思っていた人々は、社会である勢力を占めるまでにはいたらず、
大方は、「神なる天皇の治める国」を前提として、動いていた。

 「敗戦と天皇の人間宣言」を知って知る戦前の世界なので、私には、神なる天皇の話は、
 とても人の考えることではない、ように思われた。
   (他者が天皇をどう考えているかや、右翼というものを、よく知らないまま考えた時の、率直な感想である。
    しかしこれは、外国人が普通に感じることではないかと思う)

 しかし、人はそう考えていたのである。それを思うと、人というのが、さっぱり理解できなかった。

 支配者が神であるというのは、3千年前のエジプトではあった話らしかったが、
 近代の先進国で、そのような話はない。先進国の仲間入りをしたという日本での、
 そのような状況というのは不可解だった。

 知りうる限りでの普通の国には、神が治める国というのは、全然なさそうだった。
 どうして天皇は神なのか。

 「神なる天皇」の事の始めは記紀の記述で、それしか、書いたものが存在していないから、
 古代の歴史の研究は記紀の研究と同じだったのだと言う。

 しかし歴史の勉強をすると、記紀以前に古墳時代という、文献のない時代がかなり長くあって、
 記紀が出てくるのはその後なのだ。

 そして記紀のできた世紀というのは、中国やオリエントの歴史と比べると、非常に遅い時代である。

 さらに古墳時代というのも、メソポタミア・エジプト・秦と、
 大規模な積み上げ式の神殿や大墳墓のできた地域に比べると、時期的に非常に遅いのだった。

 古墳時代のことが記紀に全く書かれていないので、古墳時代のことは全くわからない、ということだった。

 だから天皇家は、この古墳時代を築いた家々から出てきた、最有力者なのだろう、とされているのだった。

 しかしそれなら、どうして古墳時代の自家以外の状況を一言も書かないで、
 神の子孫を強調する文章になるのだろうか。

 当時、神の子孫である、と強調することは、政治を司るに当たって、とても重要なことだった、
 他家や地方の古墳造営の騒ぎなど、書くに値しなかった、ということだとしか思えない。

 しかし一言も書かないのでは、その時代を知っていたという証拠さえも、残していないことになる。 
 これはとても不思議な状況である。

私は、ネット辞書の奉安殿の記事を読んで、
子供にそういう拝礼をさせることで、よく躾の行き届いた、美しい国、
というイメージを、皆で共有していたのだろうか、などと思った。

日の丸の小旗を振る日本人も、記念日に一斉に日の丸を掲げるのも、
配られたお饅頭を喜ぶ子供たちも、

慎ましやかな、分をわきまえた美しい日本人、ということになるのだろう。

「美しい国」という言葉は安倍首相のお家芸だけれども、私はその内容は知らない。

しかし戦前の日本をなつかしむ声には、天皇を中心にしてまとまった、
自己抑制が効いて愛国心を持った日本人を、
美しいと感じる気持ちがあるのだろうと思う。

天皇家もまた、一生懸命、国の中心を演じてこられたのだろうとは思う。
しかし自分を「神」にして、国民に礼拝させたというのは、私にはいただけない。

自分が神かどうか、そんなことは自分でわかるではないか。
たとえそれが、共産主義を排除して、自家と国の安定を図る方便だったとしても、
これは社会と人にとって、大きな矛盾だろう。

ましてや、証拠がないことを、隠蔽する役割を担わせたのでは。