j  ザビエルとビリャロボス

                         小説:スペイン太平洋航路目次


1546年2月18日、ポルトガル艦隊は、
北西の風を受けてテレナテ島の砦を出港した。

インド行きの準備が整うと、自発的に残留する者以外は、
すべてのスペイン人が、この艦隊に乗船した。

あれだけ反対していた隊員たちが、ハルマヘラ島の戦いの後で、
一気に考えを変えたのだった。

そして、3月9日にアンボンへ到着して、5月17日の出帆まで、ここにいた。


ビリャロボスはここで、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと、
長い懇談をすることができた。

      *ザビエルとビリャロボスは、実際にアンボンで会ったのである。
       ザビエル自身が、「引き揚げるビリャロボス艦隊に会った」と、その書簡で述べている。
           河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡2』平凡社1994(p19・60・93)
                            *ザビエルとビリャロボスの出会い

ポルトガル艦隊が、その支配地アンボンに到着した時、ポルトガル総督と共に出迎えたのは、
マラッカから到着したばかりの、スペイン人ザビエルだった。

ザビエルは、スペイン艦隊がアンボンに到着する予定だと聞いて、
マラッカからモルッカ諸島のアンボンまでやってきたのだった。

ザビエルは、布教に携わる宣教師ということでポルトガル領を往来していたのだが、
スペイン艦隊の3年に及ぶ今回の探検とその終焉は、非常に心騒ぐ事件だった。

今回が4回目だということは、皆が知っていた。また失敗だったと言う。

多くの隊員が、様々な問題を抱えていることが想像され、
それだけでも、行かなくてはと思う。

しかし今、何より気がかりなのは、自分に届けられたビリャロボスの密書の内容だった。

ビリャロボスが一存であっさり投降を決めた背景には、
帰還路につながる重要な情報が含まれていると言うのだ。

ビリャロボスの密書は、テルナテからマラッカまでやってきていた。

使者は、すでにザビエルも知っているポルトガル商人、アルヴァレスで、
またの名をペロ・ディエスと言う、スペイン人だった。
         (ヤジロー・ザビエルというイエズス会ルートではポルトガル人アルヴァレス、
          ビリャロボス艦隊のエスカランテ報告ルートではスペイン人ペロ・ディエスーーー)

驚いたことに、しばらく見ないうちに、アルヴァレスは日本に行っていたのだという。

薩摩で商談をする内に、メキシコへの帰還路開拓について、前途有望な話をつかんだ。
それをビリャロボス艦隊に伝えたところ、ビリャロボスからこの手紙を託された、と言う。

前途有望な話とは何か。

1511年マラッカ陥落の時の報告書、トメ・ピレスの『東方諸国記』は読まれたであろう。

その中に、刀剣を売るゴーレスというのが出てくるが、
そのゴーレスというのは、実は日本人らしい。

日本は国内で戦争中で、皆武器を持って戦争していて、
大量の刀剣作りなど、お手の物なのだ。

数年前に、ポルトガル人が、日本の南端にある島の領主に、鉄砲を売った。
すると、2年も立たない内に国内の中心部に鉄砲作りが伝わって、
量産が始まっているらしい。

日本南部の太平洋に面した国々の領主の間では、
我々西洋人の文明に関心が強まっていて、
太平洋を東進したいスペイン人を歓迎する、と言うのだ。

そして、これが肝心な所だが、メキシコへ帰るために日本を北上するなら、
途中での、秘密の補給港も提供できるかもしれない、と言うのだ。

ご存知のように、ポルトガルとの協定では、表向き、
日本と関わることは不都合ということになっている。

そこの所は彼らも承知していて、なお、
秘密の場所が提供できるかもしれないと言ってくれているのだ。

ポルトガル人に知られることなく、日本に深く潜入する必要がある。
それができるのは、あなたしかいない。

私があなたのことを、ビリャロボスに、そう紹介した。
ビリャロボスが是非あなたに会いたいと言っている。

密書によると、

日本へ行ってもらいたい。そこできっと帰還路の手がかりが見つかるであろう。

どうか日本へ行って、日本人に直接会って、補給港の話を取りまとめ、
帰還路についての情報を、手に入れてもらいたい。
そして連絡ルートを確保してもらいたい。

詳細については、是非、直接お話したい。できるだけ早く。
中間地点のアンボンで、お目にかかりたい。ということだった。

ザビエルは、即座にアンボン行きを決意した。

ザビエルが会った時、ビリャロボスは体力がひどく落ちていた。
それでも、ザビエルへの説明となると、燃えるような熱意に満ちていた。

*****
私はこの3年間、フィリピンからメキシコへ帰る航路を探して2回船を出したが、
皆失敗した。

以前の3回の探検隊も、帰還路を見つけることはできなかった。
どうやらフィリピンからメキシコへ帰る風はないようだ。

この間、多くの犠牲者を出し、莫大な財が散った。
今回も、命を落とした若い者たちが多くいる。このことを思うと、胸が痛む。

しかし3年もうろうろしていると、こちらの動きが周辺海域に漏れ始めるようだ。
情報が向こうからやってきた。

東向きの風ならずっと北にある。黒潮に乗って日本を北上すれば良い。
そういう話だ。

そして、こんな好都合な話があるだろうかと思われるほどだが、
日本で、我々を迎えようという動きがあるそうだ。

ペロ・ディエスの話を聞かれたか?
帰還路に関して、薩摩で非常に重要な話をつかんでくれた。ありがたい。

いやあ、ペロ・ディエスの話には、私も驚いてしまったよ。
マゼランが殺された影に、日本人がいたとはね。

今回、ハルマヘラで行われたポルトガルとの戦いで、
彼らはマゼランとの戦いを再現してくれた。
あまりにも見事で、舌を巻いたよ。            (参)

彼らもこの海域で長く活動してきていて、
住民の一部には食い込んでいるんだ。

非常に知力のある人々で、味方にできれば心強いが、
敵にすれば手ごわいだろう。

日本側でも、まだいろいろ準備があるそうだ。
それが完了し次第、いずれ日本から連絡が来ると言う。

ポルトガル人が商談に行くようになって3年たつ。
いくらか話せる者ができたようだ。
だから、ポルトガル語が話せる人物が、迎えに来ることになるらしい。

マラッカで待っていてもらいたい。
そして、必ず日本へ行ってもらいたい。
*****

ザビエルはビリャロボスに、「必ず日本へ参ります」
と、渾身の思いを込めて約束した。

そして、ビリャロボス艦隊に同乗していたコスメ・デ・トーレス神父も言った。
「必ず日本で、布教とともに、ビリャロボス艦隊の仕事をも引き継ぎます。」

ビリャロボスはそれを聞いて、安堵したようだった。

しかしそれと同時に、病魔が彼を打ち負かし始めた。
そしてビリャロボスはやがて力尽き、天に召されて行ったのだった。

いろいろあっただけに、隊員たちも感慨無量で、みなが別れを惜しんだ。



******

ペロ・ディエス

ザビエルにビリャロボスの密書を持ってきたペロ・ディエスは、

フィリピンにスペイン艦隊が派遣されたのに呼応して、
東アジア情勢を探査していた、スペインの秘密調査官だった。

表向きは貿易商人だった。彼はポルトガル人と見分けが付かなかった。

薩摩にやってきて、交易の話をしながら、それとなく東向きの風について探りを入れた。
しかしこれが彼の存在を際立たせた。

薩摩は目下、堺・種子島・琉球・中国・ポルトガルの船が出入りする拠点になっていた。
しかしポルトガル人は、見たところ、目前の通商のことばかり気にしているように見えた。

彼らとて、スペインが東向きの風を探しているのは百も承知だったが、
そのようなことを聞くのは、スペインを利するだけである。

だからポルトガル人は、あえて東向きの風を聞くようなことはしなかったが、
ペロ・ディエスは別だった。

「東向きの風」とペロ・ディエスが口にしたとたん、日本人の表情がさっと変わった。

ペロ・ディエスはギクリとしたが、
こちらをスペイン人らしいと見て、向こうが興味を持って来たとわかってほっとした。

日本の堺商人始め南海路関係者に、スペインとの通商要望があったのだ。

東の風というのは、南海路よりはずっと北を吹く風らしい。
しかしそれも、海路をたどれば何とかなるに違いない。

日本に約1年いる間に、ペロ・ディエスは、
南海路関係者に内在するスペインとの通商要望を、
航路開拓につなげる努力をした。

太平洋沿岸を、通商と補給をしながら北上できれば、後は東へ行けば良い。
東北の、陸上最後の拠点となる地点にも目処が付いた。

そして水先案内人について、南海路の関係者が請け負う向きを明らかにしたのだ。
さらには、
  「まだまだ要望がある。
  自分の港でスペイン式の船を作って、自分たちで太平洋を渡りたいという御仁もおられる。」
こういう話も舞い込んできた。

こんなに話が進んでいいものか。

そう思っている内に、モルッカ諸島の紛争で、
薩摩武士が、ポルトガルに対抗する現地勢力に、軍事顧問として加勢する、
という話が耳に入って来た。

すぐそばにスペイン艦隊がいるらしい、というところまでわかった。

ビリャロボス艦隊が出発してから、もう3年になる。
こんなにいい情報をつかんだのに、艦隊の人たちはまだ何も知らないのだ。

とにかく早く、彼らに教えてやらなければならない。
しかし、話を確実にするためには、日本の内部に侵入して、実情を把握できる体制を作らなくては。

やはりザビエル殿に頼もう。彼なら日本を歩き回れるだろう。宣教師たちを先導して、
日本に情報拠点を作れるだろう。
宣教師なら、日本各地を歩いても、ポルトガル人にとってもそう奇妙ではない。

そこで日本人に、誰か、マラッカにいるザビエルを迎えに行ってくれるだろうか、と聞いてみた。

すると、「ポルトガル人との交易担当者ヤジローが派遣できるだろう。
代わりの人材を養成してからでないと駄目だが。」
という返事が返ってきた。

ああ、あの男だ、と、心当たりがあった。居あい抜きの名人だ。
護衛にもピッタリだ。

こうして、代わりの人材が養成できれば、マラッカまでザビエル殿を迎えに行く、
という約束ができた。

そこで、ジャンク船だったが、年取った薩摩武士と同じ船に乗って、
ブルネイまでやってきたのだった。

同船した船の上で、その薩摩武士は言った。
  「1521年にマゼランが来た時に、マクタン島首長ラプラプに戦略を授けたのは、この私だ」

  「見ていろ。ポルトガル人相手に、原住民がどんな働きをするか。
  マゼランの時も、背後に私がいたのだ、ということを証明してやろう」

それでペロ・ディエスは、戦争の成り行きに非常に興味を持ったのだった。

ブルネイからは別の船に乗り換え、テルナテのポルトガルの砦に、商人として入った。
とりあえずポルトガルの顔を立てておこう。

直接スペイン艦隊に行ったら、
この海域に勢力を張っている、ポルトガルの利便性を失う恐れがある。

こうしてペロ・ディエスは、日本情報と、交易と、メキシコへの帰還路の情報を持って、
ビリャロボスに報告しに来たのだった。