ジェイン・エア2

                                                   雑文へ戻る
2013・8・30
ジェイン・エアが暮らした寄宿学校の勉強科目は、
不思議と現在の日本の学校科目に似ているような気がする。

裁縫・編み物とあっても、生活上必須の、
完成衣装にまで仕上げる技術として特筆されているわけではないし、
料理・洗濯・掃除が登場するわけでもない。

目立つのはフランス語である。これが庶民の生活技術と、何の関係があるだろう。
救貧院みたいな過酷な寄宿学校なのに、意識して取り上げられているのは、
庶民に関係ない高級趣味の学業である。

子供向けの本で、貧乏して苦労した話に出てくるのは、
水汲み・料理・掃除の話。
シンデレラ・白雪姫・小公女、など、みなそうなのだが、
ジェイン・エアには出てこない。

逆に、サバイバル的な生活技術そのものを描いた少女物は、
「大草原の小さな家」シリーズだろう。

私のような育ち方をした者にとって、読み物として必要だったのは、
この「大草原の小さな家」シリーズだったかもしれない。

なぜなら、過酷な状況での、家政を預かる立場での生活技術というものが、
必要なものとして描かれているからである。

   (私は近年まで読まなかった。テレビドラマでやっていた時も、
    家族の愛情ドラマという側面を強調する話ばかりだったので、
    全く関心が持てなかった)

高校が元女学校だったせいもあって、家庭科なるものに長い間付き合わされたが、
その学ぶ眼目が「円満潤滑な家庭の経営のため」だったので、
それを聞くたびにゲンナリして、聴く気を無くしていた。

私のいまいましさを、そらして相手にしなかった先生は、全く偉いと思う。


私は、私が成長した心の経過を、周囲の人々が、何を脳裏にインプットして反応していたかを中心にして、
それぞれの人物の行動の核心と、自分の心の核心の衝突、という形で、
小説みたいな形にできないかと、しきりに考えるのだ。

それこそが、生きる隙間がないと思う人に、
何らかの、生きるヒントを与えるものになるのではないか、と思うから。

学校ではよく、他人の気持ちのわかる人間になりましょう、なんて言うが、
他人の気持ちなんて、わかるものではない。

それに、相手の強要に対して柔弱で、自分の心を守る手立てを持てない人間像を、
「良い」とすることになりかねないのは、問題だと思う。


中学の頃は、親の要請もあったのだろう、家の手伝いをする、
というのが学校指導の一つだったような気がする。

  (そんなこと、一言も言わない学校だってありそうだから、
   私は当時を思い出してそう言うのだ。)

しかし、実家では、台所になど、心理的に、立てるような状況ではなかった。

父親が洗い物を「やれっ」と居丈高に怒鳴りつける。
あまりのひどさに、しぶしぶ洗い物に立とうとすれば、
母親が、「いい、私がやる」と、しおらしそうに言う。
(これでこの仕事に関しては一巻の終わりである。親の言動が、矛盾しているのだから)

何か台所でやろうと思って立つと、父親が、
私が「下女」を最後までやり遂げるかどうか、それを見極めようと、
後ろで冷たい目線で見据えているのだ。

台所仕事というのは、父親の怒声と脅迫でやらされる、
極めて忌まわしい作業という感じだった。

これでどうして、台所に立てるだろうか。
学校でいくら、おいしい料理を家族のために、なんて説いたって駄目である。

その家庭の中で、料理が必要で大事で、高等な仕事だ、ということになっていなければ、
料理など、手を付けることはできない。

怒鳴りつけて従ったならば、一段と低い者になった、とばかりにほめてやろう、みたいな態度では、
料理の作業が、嫌な気持ちを起こさせる、悪い仕事、というイメージにしかならない。

料理の嫌いな女性なんて、メディアではさして珍しくないので、
私も自分の経緯を書けるような気がするのだが、

私が実家を離れるまで、家事作業を忌み嫌った心理にも、道理というのはある、と、私は思うのだ。

そういうことが、個人の性格だと表現されること、これを私は、社会から、なくす必要があると思う。


私は、父親の態度がある時期に変化したのだということを、長い間、思い出せずにいた。

6年のある時期に、突然それが始まったのだ、ということを記憶から呼び起こしたとたん、
あれも父親の性格とは、全く関係のない話だったのだろう、と思った。

父親がそれまで仕入れてきた行動・思考の規範とは違う、

新しい現代の暮らしでの、別の人間関係の築き方、言語生活を操って別の関係を探り出す能力、
そういうものを仕入れるようにならない環境で、

全く自己陶酔のトチ狂った判断を、学校の先生という、かつての権威から、
母親を通して、肘鉄をくわすように与えられ、脅迫されたせいなのだろう、

という風に見えてきたのだった。


2013・8・31

当時の思春期・青少年問題で発言していた教育評論家やメディアは、
私や家族に対しては、ろくなことを言っていなかったと思う。

  昔は父親の一喝で子供は折れたものだ、戦前の父親は、地震・雷・火事・親父、と、
  こわいものの代表に数えられるほど、恐れられて権威があった。

  父親の権威の失墜が、家庭のタガの緩みの原因だ。
  大黒柱としての父親の権威を取り戻せ。父親は威厳を持て。
   
  子供は親の知らない所で悪にはまる。万引き・麻薬・シンナー・家出・犯罪。
  親はそれに気づかない。
  子供の危険サインはかくかくしかじかで、
  それに該当しておかしいと思ったら、学校や警察に相談しよう。

  親は、子供と対話しよう。
  子供との対話の時間を設けて、子供の心を離さないことが大事である。

何よりも親が自分の姿勢を正すことが大事である。
  親が手本を見せ、子供にゆがんだ道を選ばせないことが大事である。

なんともはや、我が家には大変なことであった。
  
父親の場合。
軍隊で身に着けた怒声で、目一杯怒鳴りつければ、子供はテコでも動かない。
馬鹿にされたと、ますます激昂するが、事態はさらに悪くなる。

母親の場合。
自分はやったこともなかった家事手伝いを、娘にやらせるには、どうすればいいか。
自分は、手伝いをしていた、良い子だったことにしなければならない。
そうしないと、手本にならないから、と思う。

というわけで、怒鳴りつける父親の言うことを聞け、
自分は良い子だった、言うことをきかないあんたは悪い子だ。
そう、しっかりと硬く言ってみた。
  (腹の中でペロリと舌を出す。母には姉が二人いた。
  交代で平等に手伝いをしたとでも言うのだろうか。私はこの点でも嘘だと思う)

   伏線として母親が当てにしているのは、寺島弘隆氏の、母娘の比較の挙句の、母親にあげた軍配である。
   あの男は、母親の方が性格が良い、と言ったのだ。

しかし、事態はますます悪くなった。

すぐに怒声を発する父親を嫌って、先日まで娘に共感を求めていたのは、母親なのだ。
突然の裏切りに、娘は穴のあくほど母親の顔を見つめる。

ぼんやり知っている母親の大勢の兄弟の、その父親が、怒鳴りつける人物とはとても思えない。
そしてこの母親は、自分は嫌なのに、娘には、
怒鳴りつけられて、へいこらと、はいつくばって、言いなりになるように、と、
しらじらしく硬い調子で言ってのける。
自分は正しい立場に立って、娘は泥の中に蹴落とすのである。

寺島弘隆が、私の性格が悪い、と言ったものだから始まった、この性格吟味は、
私の性格が悪いということを、証明するような展開で、進行するしかないのだった。

私は、片方では親孝行などという概念もあるので、自分の、テコでも抵抗する性格というものを、
どう考えたらいいかわからなかった。

自分としては、へいこら、はいつくばるなんて、できないと思うのだが、
親からすれば、それが、邪悪以外には捉えられないのである。

思春期の子供が、怒鳴りつけられて言うことを聞かないのは、全く当たり前のことで、
何も問題にすることではありません。

そういう評論家の意見が新聞に載ったりしても、
古頭で、とにかく家の中を順当にきりまわさねばならない親には、
怒鳴りつけても言うことをきかない、という、この1点に問題が絞られる。

私は私で、怒鳴りつけられては言うことなど聞けない、という、この1点に、
生きていてはいけない性格の、根幹があるように思えるのだ。


2013年9月1日

実家は祖母のものだった。

私の父は、祖父の甥である。大正時代に北海道の極北へ渡った、祖父の妹の子である。

10年近い海軍生活で、3人乗りの特殊潜航艇の乗員となり、沖縄での3度の出撃にも生還。
沖縄の山岳戦を生き延び、本土決戦に希望をつないで、終戦間際にボロ船で、
戦友たち20人近くと手漕ぎで沖縄脱出を図ったところ、
漂流中に終戦を迎えて、運よく米軍に救助されたという経歴の持ち主だった。

私思うに、米軍がなぜ父親たちを助けたかと言うと、
山岳での戦闘状況と、脱出経路を確認しようとしたためだろうと思う。

アリの這い出る隙間もないほどに、膨大な量の軍隊で、海岸線を完全に固めているはずだったのに、
海を漂流している船を発見したのだ。

私の母は、祖母の姪である。近くの村で生まれ、9人兄弟の真ん中だった。

祖父母には子供がおらず、以前にも養子を迎えようとしたのが、うまくいかなくて、
とうとう、戦争から帰ってきた甥と、津波で父親を亡くした姪をくっつけて、
その二人を養子に迎えたのだった。

祖父母の営んだ「よろず屋」は、戦前は順調だったらしい。母の目には豊かさの象徴だったようだ。
そのよろず屋を、実質的に仕切っていたのは、その昔、大阪の大商店に奉公していたという、
嫁にきた祖母だった。(何十人もの勤め人がいたのだから、「大」でいいのだろうと思うのだが)

私の記憶の中にある、家の中での祖母の地位というのは、「偉い」「偉い」と褒めちぎる周囲の人々に囲まれた姿から、
父親が怒鳴りつけて顔色を変える姿へと、10数年の間に激しい変貌を遂げる。

6年の頃には、祖母は老いが進んで状況も変わり、若い世代には、口をはさまなくなっていたと思う。

私は、祖母と母親という、二人の女性の世話で、日常は何不自由なく暮らし、
本ばかり読んでいて、家事などやったことがなかった。

私は神経質なほどに、学校の先生の言うことに注意し、間違いのないように行動しようと、常に心がけていた。
だから、親の言うことは聞くものだ、くらいのことは、
そうしなければならない、と、頭の中では信じているのである。

しかし、6年時に発生した状況では、頭の中の指令が、全く逆を示していた。
       (こういう状況を、心理学ではダブル・バインドと呼ぶ。矛盾する指令に、二重に縛られている状態を言うのである。)