古墳築造社会と文字の必要性 2013.3.5
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たとえば古墳時代の共通様式の全国的な広がりについて。
同盟に応じてくれれば、見返りに前方後円墳築造技術や儀式道具や埋納品、
その他多くの、知識・技術・物品・人を提供しましょう」など、
こういうことを伝えようとした場合、
使者が口頭で伝えるだけで用が足るものだろうか。
実のところ、前方後円墳という外形のほかに、
共通様式の広がりが何によってどれくらいどのように確認できているかまでは、
私は詳細に知っているわけではない。
しかし外形だけでも、それに付属する諸々に関して、交通・物流・情報・人の移動など、
想定できる事はいろいろある。
同盟しようと申し出た使者は、確かにヤマトの使者か、それはどうやって証明できるのか、
そして確かにヤマトの提案を伝えているのか、内容の確かさは、どうやって確かめるのか、
出入りの、貴重品・必需品の運搬者の紹介でやってきた使者は、信用できるか。
きっと貴重品プレゼント付きだろう。
箸墓古墳の被葬者を埋葬した時は、きっとそのような手段で、
各地から有力関係者を、式典に招待したのだ。
そして度肝を抜く演出で招待者を感嘆させ、また、服属民が平伏する有様を見せ付けた。
それは、地方有力者をして、よーし、これはいい、と思わせるに足るものだったのだろう。
もし広瀬和雄説のように、
前方後円墳が地域共同体の再生産を祈る「護国の神」的なものだったとしたら、
地方有力者の自尊心をくすぐり、自家系譜の安泰を意味し、尊崇を集めそうであり、
そして和平の象徴である。
武器を使ってお互いに人や物を消耗するよりも、相互に協力しあい、
外に向かって必要なものを手に入れるために努力し、安全で豊かな社会にしよう、という提案。
これに乗らないのは損、ということになる。
構想者が文字を持っていた可能性はあるとしたとしても、(たとえば中国のように)
その実現過程で、その社会に文字が必要でなかったかどうか、
それを、考えなくてはならない。
○使者が物をいくつも持ってきたとして、
相手首長が持たせたはずの物を、自分が確かにもらったかどうか、
貰い手の首長が確認したい、ということもありそうだ。
使者が途中で抜き取ったのか、それとも最初からなかったのか、この違いを確認したい。
○使者の口上が、本当に相手首長のものなのか、
口だけでは、使者を信用できないのではないか。
確かに相手首長の言葉だという、動かない文字による証拠が欲しいのではないだろうか。
考古学ではこのような考察をしないが、様々な事態に対応するには、文字言葉が必要ではないだろうか。
そう言えるだけの、充実した理論的考察、というものができるならば、それを考える必要がある。
「考古学の範囲」という観念に縛られているだけのことなら、
ちょっと方向を変えて、考えてみればいいだけのことである。
*私は、どうも自分の仮説にこだわってみたいのだ。
絶滅の危機をくぐりぬけた記憶を持つ、遠来の人々が作った国、という仮説である。
蒙古が中国に建設した元はパスパ文字を採用したが、
パスパ文字の源流はウィグル文字であり、
ウィグル文字の源流はソグド文字、
ソグド文字の源流はアラム文字。
ウィキペディアのアラム文字の解説で気になるのは、以下の部分である。
*****
アラム文字は時代・地域によって非常に多くの字形があり、
アラム文字から派生した他の言語の文字も非常に多い。
ペルシア帝国時代に行政言語として、
エジプトからアフガニスタン・中央アジア、インドまで広範囲に渡って普及し、
紀元前後にはアラム語の諸方言のみならず、パルティア語やソグド語などの中期イラン語の表記にも
メソポタミア地方で使用されていたアラム文字が用いられた。
*****
そして、表に出ている、アラム文字の源流であるフェニキア文字は、一見したところ、カタカナに似ている。
私の仮説に沿って考えると、
ペルシア建国を土着勢力として支えたエラム人(ヤマトバルを本拠地とした人々)は、
ペルシア拡大に伴って、広大な地域に関する知見を得た。
それには中国の西端、秦の国の知見もあった。
アレクサンダー大王の進出によるペルシア滅亡で追われたエラム人は、今度は中国西端の秦へ亡命した。
秦に住むようになって漢字を使う生活になり、漢字を拝借して、フェニキア文字に似たカタカナを作った。
ペルシアの知識を秦に注ぎ込み、中国統一に貢献したが、
またしても秦は短命で滅亡。
彼らエラム人は既に、インド南岸を回り、マラッカ海峡を抜けてインドシナ半島を回り、中国への航路も開拓していた。
この航路は地続きで、住民がある程度行き来していたので、開拓は比較的簡単だった。
さらに東はどうなっているのだろうと調査を進め、すでに日本列島の存在を確認していた人々は、
安全を求めて日本へ移住した。
こう仮定した場合、その後の文化の進み方はどうなるのだろう。
(以下にメモを貼り付けておく)
日本人・ヤマトの祖先は、
メソポタミアのヤマトバルを本拠地としたエラム人である。(*1) (*2)
土着勢力としてアケメネス朝ペルシア建国を支え、(*1) (*2)
その領域拡大に伴って、中国西方の秦とも深く交流した。
アレクサンダー大王の遠征でペルシアが滅亡した時、秦へ亡命した。
ここで漢文を使うようになったので、フェニキア文字(*)のイメージから、
記号としての「原始カタカナ」を作り出した。訓読用の「ヲコト点」も作り出した。
秦王家へ一族を送り込みつつ、ペルシアの知識を注いで中国統一を支えた。(*1ペルシア帝国)
(*2秦始皇帝の中国)
秦の滅亡に際して、王家につながるヤマト族の一派が、朝鮮を跳び越して日本へやってきた。
後期縄文人が住む日本へやってきたヤマト族は、後に弥生人と呼ばれるようになった。
江南の米を持ってきた(*)が、貯蔵方法は華北方式も使った。(*袋状竪穴)
初期弥生人は、遠距離移動や探検を強烈に記憶していたので、
その一部は、弥生人形質が消えない数世代のうちに、東北から北海道に達した。(*国立科学博物館サイト)
秦の王族に連なる人々ではないかと仮定しています。
絶滅の危機をくぐりぬけた記憶を持つ、遠来の人々が作った国、という仮説です。
前方後円墳がやたらと大きく、始皇帝陵に匹敵するようなものもあるのは、そのせいではないかと思う。
こういう話は荒唐無稽の類に見えるでしょうが、私としては、今のところ、随分うまく説明が続行できると、
我ながら感心しているのです。