l   隠れ家

                               小説:スペイン太平洋航路目次

               下記文中、参考文献に『海部町史』を引用してある。
               『海部町史』の私実家に関する記事は、全くの「中傷」である。

               私の実家は、よろず屋であり雑貨屋であった。従って、肌着も売っていた。
               しかし、「肌着」を意味する地元の俗語で、店前に看板めいた書き物を、したりはしない。
               
               おそらく、寺島弘隆か、その周辺の、いやがらせなのだろうと思う。
               いやらしいと言ったら、徹底的なので、私も永遠に反論し続ける。
            
               絶対に許さない。

               それから、朝日百科の今谷明氏の文中に、兵庫北関入船納帖の紹介で海部を取り上げつつ、
               暖地の海部の木材は、キメが荒くて品質が良くない、と、わざわざ書いてある。

               割って建材を作る昔のやり方では、高級建築には高級木材が必要だったかもしれない。

               しかし、植林もしないままでは木材が貴重になるのであって、
               必ずしも手割で作るような高級木材ばかりが必要とされたわけではあるまい。


海部川上流の山中に、海部氏の隠れ家があった。

そこを守る長老は、山や畑の仕事をしながら、
海部川を上下する物流で商いをして暮らしていた。


昔は川を利用して物資を移動させていた。

船に物を乗せて下るのはわかりやすい。
上りはどうするのかと言うと、

一人が、わらじ履きで川原を歩きながら長縄で船を引っ張る。
もう一人は、船に乗って棹を差したりへさきを引っ張ったりして操る。

そうやって船を操りながら、川を上流へと遡るのである。  (『海部町史』p104or「川を遡る」で検索)

川を上下する船を、海で使う沖高瀬舟と区別して、川高瀬舟と呼んだ。


昔は川は重要な物流ルートだったのである。
海部氏の長老は、その物流の中継地にいた。
そしてその家屋は、確かに海部氏のものだった。

目だった行き来はしていなかったが、
友光は子供の頃、父と一緒に長老を訪ねたことがあった。
それは5月のむせかえるような新緑の頃のことだった。

山を歩くと、猟師がたどる獣道以外に、道と言えるような道がない所がある。
それで、朝早く、遡行する船に乗った。
途中の津でも度々停まりながら、夕方になってようやく皆ノ瀬の津(港)に着いた。


  ここからさらに奥へ荷物を運ぶには、背負って行くしかない。
  しかしそれでも、奥深い山中に、霧越峠を休憩地点とする、
  確かな流通路ができていた。

  霧越峠とは、名前はロマンチックだが、その名の通り、霧に包まれていることが多く、
  鬱蒼とした森林を見透かすことができれば、かろうじて、空に連なる山々を見はるかすことができた。
    (現代は自動車道から切り通しになっている。昔はここに茶店があった。))

  阿南へ下る那賀川は、その昔は、上流が浅くて交易には使えなかったのだ。
  物流が那賀川沿いへと変わったのは、実に、400年後の大正時代である。(『海部町史』p102)

  古くから海部川を上下する物資は、上流からは木炭・茶・椎茸など、
  下流からは塩・米・鰹節・衣料などだった。
  必要な物は、相互に融通し合わなければならない。

  そしてまた、木材という重要商品が、上流から下流へと、大量に移動していた。
  これらは筏(いかだ)流しや放流で移動させた。

  昔は川沿いの物流関係者が大勢いた。
  長老はその中継地にいた。

川原をたどって、それからさらに、
細い登り道をしばらく上がって行くと、
覆いかぶさるような木々の間から、丸木を並べた高い塀と門が現れた。

門を抜けると、何重にも仕切りがあり、
倉庫がたくさん並んでいて、住む家も複雑に入り組んだ作りで、
人がどこでどうしているのかわからないような、家屋のかたまりだった。

その向こうには田畑が広がっているのが見えた。

長老の住まいは、かなりの大人数だった。
川を遡る時の最終地点であるため、仮の宿泊や預かり、食事の用意も必要だった。
そのために人が多く、物も多く、緊急時の防衛対策も多かった。

この頃は平和は保障されておらず、野生動物の被害も多く、
可能な限りの防衛体制が取られていた。

この家の長が、海部氏にとって長老という関係にあるのだ、
などというようなことは、誰も知らなかった。

ここへは、海から奥地に運ばれる品々に紛れ込ませて、
あれこれと貴重品が移動してきていた。

友光の父に請われて、長老は奥へと案内した。
長老も、いかなる時にも腰の刀をはずさない人だった。
この地ではそれが常識だった。

そして薄暗がりに差し込む日の光を頼りに、
海部氏伝来のものだという、不思議なものを見せてくれた。

一つは、無数の亀甲紋が浮かび上がる、
太陽の光を固めたような、透明なカットガラスのお椀だった。

外側にたくさんの丸いくぼみが付いて、
重なり合った部分が亀甲模様になっている。
それが光の反射で、無数の亀甲紋が浮かんで見える、ようになっているのだった。

「目出度い品だ。」

これがいくつもあるのだが、父の話では、
これはペルシャのもので、とても古い物だと言うのだ。

人が作った、透き通った硬い品物というのは、
友光はそれまで見たことがなかった。

光が反射して、無数の亀甲紋が浮かび上がるというのも、実に不思議な感じがした。

二つ目は、色とりどりの鳥の羽を貼り付けて描いた、
木の下に立っている長い衣の女性の屏風絵。

この貼り付けてある羽は、外国の鳥のものだと言う。
「染めてあるの?」と聞けば、「羽を染めることはできん」と答える。

羽はとても大きなものだった。
そして色となると、赤、黄、青、白、桃色、橙、紫、緑、というような色である。

小鳥ならまだしも、このように鮮やかな色をした、大きな鳥がいるなんて、
想像もできなかった。

それを、色を使い分けて、下絵に彩色するような具合に、貼り付けてあるのだ。

「緑の森の中に、こんな色とりどりの、とても強烈な色をした鳥がいる、
そういう所があるのだ。」

その鳥の羽が、屏風絵に仕立てられて、
遠い異国の森林を想像するよすがになっているのだった。

「鳥の羽は日持ちがするので、異国では売っていた。
それで作ったものなのだよ。これも、とても古い物だ。」

羽のすじを見ながら、色鮮やかな大きな鳥がいる森を想像しようとしたが、
見たこともない世界のことに、友光は困惑するばかりだった。

鳥の名はオウムというのだと聞いた。

   くちばしの曲がったオウム目(もく)の鳥には、
   オウム科の鳥もいれば、インコ科の鳥もいるが、
   昔の人は、特に区別はしなかっただろう。

三つ目は、竹のまきすのような物。大量にある。
竹簡と言って、昔の本だと言う。
中国では秦の始皇帝の時代によく使われたものだという。

重くてかさ張るので使われなくなったものが、ここにあると言う。

みんな、海部の先祖の由来を語る物なのだそうだ。

海部氏は、ペルシャから来た一団の中で、海運を担ってきた部族だった。

先祖は昔から海を行き交うことを仕事にしてきた。
遠い昔には、外国を行き来していた。

父はそう言うのだった。

とても大切な物だから、海岸近くには置いておけないので、ここに移動させてある。
今の世の中はとても物騒だから、ここのことを、忘れないように、と言うのだった。



太平洋を回ろうとしているスペイン。
彼らと手を組むのは、先祖の仕事の続きではあるまいか。

京や堺の騒乱は、いつ誰が寝返るかわからない。
讒言と陥穽と暴力に満ちた世界であり、全く予想もしない方向に展開するのが常だった。

こういう混沌に比べれば、大海を渡る話の方が、おもしろいのは当然だった。