メモ:長江正一『三好長慶』吉川弘文館
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私が持っているのは昭和43年刊の古い版なので、ページ数には注意
p31、海部 三好之長と共に、細川澄元を推して上京の時
参考文献いろいろ
p45、「1520年、足利義晴、細川高国が、京都回復のため諸方に出兵を求めた。
その中に、3月26日、阿波海部郡・海部下野守(元親)に忠節を要求したものがある。
同日付で豊後の大友義鑑(よしあき)、
5月19日付けで土佐の幡多の一条房家に阿波へ進入することを命じたものもある。
『御内書案』『室町家御内書案』
京都・堺へ出陣して手薄になった三好元長の根拠地を、擾乱させようとした。」
どれだけ出した書状かわからないけれど、
このように書かれると、大友氏・一条氏と並んで見える。
p180、三好長慶が極めて盛んになった理由として、
「三好氏が小笠原氏の名で阿波に入って300年、その間、その支流が阿波に蔓延し、
その血族意識によって、阿波は三好、との考えのもとに一意団結した。」
という説が書いてある。
阿波の城主の数は、諸本によって、218、158、123、107、といろいろだが、
その中で、小笠原姓との関係性を、表にしたものがある。(p181)
表の下の解説に、
「阿波海部に、小笠原姓が絶無なのは、一つは細川氏が最初に占拠した地であるため、
他氏を追い、他は阿波として辺境であるから、小笠原の血がまだ届かなかったであろう。」
なんて書いてあるのだが、「細川氏が最初に占拠した地である」
とはまた、気になるではないか。
どうして僻遠の地の海部が最初に占拠されたのか、
その、誰でも不思議に思うようなことについて、
全く説明しようとしないのは、なぜなのだろう。
確かに、平成7年版『海南町史』で、ようやく、1352年・1392年・1420年の確実史料で、
幕府近くにいる海部氏を確認することができるようになったけれど、
長江氏は、一体何を根拠に、細川氏と海部氏の強い結びつきを示唆したのだろう。
細川氏と四国の絆の発生は、『太平記』に出てくるから私は知っているのだが、
『太平記』には、もちろん海部氏など、全然出てこない。
しかも長江氏は、それが、阿波で最初に細川氏が海部を占拠したためだ、
などと、摩訶不思議なことを言う。
占拠した所の者が、有力家臣、みたいな形で、確実史料に出てくるのは変だし。
p185、 以下は『故城記』『太田文』『小笠原系図』『古城諸将記』『昔阿波物語』のどれかによるらしい。
長慶の姉妹の夫である海部郡の海部宗寿は藤原氏(宇多源氏ともいう)