江戸期の気になる史料(1)
       「1813年 大阪廻船29(そう)

                                              江戸期の気になる史料

昭和46年(1971年)刊『海部町史』p181によると、

                    那佐湾は大型廻船が風待ちをするところ、
                    鞆港は積荷をするところ、であった。
 

1813年 大阪廻船29(そう)

文化十年(1813年)調べの
「海部郡 鞆浦 棟附 御清帳 ニ付 大阪廻船漁船持 之者共 相調へ 差上帳」

 
 一、大阪廻船 壱艘(いっそう) 拾六端帆   鞆浦加子人 基平衛
         但三百六拾壱(さんびゃくろくじゅういち)石積

 一、同     壱艘       拾参(じゅうさん)端帆  同浦年寄  平左ヱ門
         但弐百九石積

 一、同     壱艘       拾五端帆     同人小家   基七
         但三百五拾五国積


             (中略)
 

    船数 合 弐拾九(にじゅうく)


一、漁船    三艘       五端帆      同浦加子人   三郎右ヱ門
一、〃     九艘                  同人
一、小船   八艘                  同人

    ○弐株帆無御座候

    漁船数 合 九拾艘

    大阪廻船数 合 弐拾九艘

右者(みぎは) 此度(このたび) 当浦棟附御清帳 御取調 被為仰附 ニ付 文化十 酉年 御改之節
大阪廻船 並 漁船 持主之名面 相調 帳面 指上申候 以上

                     海部郡鞆浦庄屋  高橋全兵衛    印
      亥(天保十・1839年) 同浦年寄       田中次左ヱ門  印
                     〃五人与       清右ヱ門     印
                     〃            喜助       印
                     〃            長左ヱ門    印


 これで見ると、海運に従事していた船の行き先は「大阪」であって、徳島や阿南との通交を目的としていた船は、全くないことになる。