堺の歴史@  中世の自由都市

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 中世の堺のまちを象徴する言葉として使われる「自由都市」ですが、
研究者の間ではそれを否定する意見も多いということを、〔最近は肯定派が増えてきているようですが(脇田2000)〕
まず認識しておくべきでしょう。
ここでも、限定された意味で自由都市という言葉を使います。

 西欧では、12から13世紀になって農業生産力の上昇とともに、地中海と北欧の貿易圏を結ぶ地域に数多くの商業都市が生まれました。
特にドイツ中世の自由都市〔帝国自由都市とも呼ぶ〕は、
ドイツ国王(神聖ローマ皇帝)や封建諸侯による自由な活動の保証を得て成立した商業都市でした。

 では日本の場合はどうたったのでしょうか。
鎌倉時代になって、畿内地方を中心にやはり農業生産力の上昇が見られるようになり、
奈良・京都・鎌倉といった旧来型の政治都市とは異なり、
兵庫・淀・大津・敦賀といった地域が都市的機能を持ち始めます。

 そのなかでも、中世都市として最も繁栄したのが、でした。
その主な理由は二つほど考えられます。
一つは、そこが交通上の要地であったということです。
中世の大動脈は、京都や畿内地方と朝鮮半島・中国大陸を結ぶ瀬戸内海であり、
その東のターミナルが兵庫と堺、西が博多でした。

 もう一つは、安全に商業活動ができる場所であったかどうかということです。
兵庫は応仁の乱で、博多も元寇以来の兵乱で、商業資産の蓄積できる安全な場所とは言えませんでした。
それらの都市に比べて堺は、1399年の応永の乱の戦火でほぼ全焼したものの、
それ以後は幕府の御領所として、さらには幕府第一の実力者であった細川一族の守護所として、
15から16世紀の繁栄を得たのでした。

 自由都市を、都市住民の大半が自由で平等な都市とすれば、
有力商人など、一部の人々のみで運営していた中世都市は自由都市でなかったということになります。
〔その意味では、中世西欧にも自由都市は存在しません〕
しかし中世後期(室町時代)の堺は、幕府の力によって商業活動の自由を保障された〔住民自治の都市〕
と言う意味での自由都市であったということは、少なくとも言えると思います。
また、この自由が利休の茶の湯など、当時の日本を代表する文化を生み出す土壌となったのです。

 なお、来日にたイエズス会の宣教師がRepublica do Sakai は日本のベニスのようであると言っていますが、
(東洋のベニスとは言っていません)、
これはベネチアのような都市国家であり、共和国のようだという意味です。
宣教師はポルトガルやイタリア出身者がほとんどなため、
日本で唯一、町衆によって運営されていた堺を、
当時イタリアで唯一、市民の共和制によって運営されていたベネチアと比較したのだと考えられます。

自由都市ということでは、イタリアよりもドイツやネーデルランド諸都市の方が、
堺の都市〔運営の〕形態に近いということになります。