堺の歴史B 通史
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(1)古代の堺
地名としての堺が最初に史料に見えるのは、731年成立とされる『住吉大社神代記』で、
そこに開口神社の社域として「北を限る、堺大路」と記されています。
堺大路は、現在の大小路にあたり、摂津と和泉の国境であったことによるものと思われます。
集落としての堺は、1045年に没した藤原定頼の『定頼卿集』に「さかゐ」での塩湯あみが記されているのが初めです。
住吉大社に参詣した平安貴族が立ち寄るリゾート地だったことがわかります。
また堺は、飛鳥・奈良時代から竹内街道・長尾街道の西端に位置していましたが、
1081年には熊野詣の「和泉堺之小堂」が『為房卿記』に記されているように、
交通上の要衝でもあり〔僧・行基らの人物を生み出し〕ました。
次に、鎌倉時代に入るころに、堺の津(港)が史料に登場します。
それによれば、1220年前後に堺津は、全国的に寺院の梵鐘などを造った〔河内〕丹南鋳物師の廻船基地となっていたことがわかります。
(2)中世都市の形成
堺が都市機能を持つようになるのは、南北朝時代ころからだと考えられます。
首都であった奈良や京都、大宰府の外港であった博多などを除き、
最も早くに都市化した地域でした。
そのため、軍港・商港として、南朝・北朝による争奪戦が繰り広げられました。
「堺版」とよばれる印刷物が、京都や奈良以外でも早く刊行されるようになるのも、
この時代からです。
〔山名氏清に続き〕1391年には周防山口の大内義弘が、和泉・紀伊二国の守護として堺に来住します。
義弘が足利義満に反旗を翻した応永の乱では、堺の民家1万戸が類焼したといいます。
当時としては、たいへん大きなまちだったことがわかります。
こうして室町時代の初めには、幕府の管領細川氏の一族が和泉国守護となり、
堺南荘は幕府の官寺ともいうべき崇寿院〔京都・相国寺の子院〕の所領となっています。
また堺北荘が含まれる摂津国も、細川氏本家の守護領国であり、
堺は室町幕府の直轄領的な都市として、他の武士勢力の侵入から護られ、
「自由都市」として発展しはじめます。
(3)海外進出と堺の豪商
1467年から10年あまり続いた応仁の乱では、
西軍(山名方)の大内氏が、再び領国と京都とを結ぶ港として、堺や兵庫に目をつけました。
大内政弘は堺浦に上陸しようとしますが、東軍(細川方)の守りが堅く、兵庫に上陸することになります。
これ以前に兵庫から出航した幕府と細川氏による遣明船は、
応仁の乱のため瀬戸内海を兵庫まで帰航できなくなり、土佐沖を廻り堺に上陸することになります。
ここに堺が初めて遣明船の基地となったのです。
しかしこの偶然ともいえる遣明船の初入港からわずか5年目には、湯川宣阿などの堺商人が、
独力で次の遣明船を請け負っていることからもわかるように、応仁の乱以前に堺には豪商が生まれていました。
その理由の一つとして、1372年に明との国交を結んだ琉球国を中継地とした貿易が行われていました。
日本からの遣明船は10年に一回ほどでしたが、琉球からは毎年1回は派遣され、
さらにシャム(タイ)などとの貿易も行われ、
伝統的な博多商人に加えて、新興の堺商人がこれに参加していたのです。
応仁の乱後の5次に及ぶ遣明船も、一部の大内船を除き、堺を基地とするようになります。
幕府・細川氏による商業活動の自由の保護と、経済力をつけてきた堺商人の実力がそれをものにしたのでした。
ここに堺は、日本最大の商業都市となったのです。
(4)金銀の集まる都市
細川氏が1507年に養子間での後継者争いがもとで力を落すようになると、
その家臣であった阿波の三好氏が台頭します。
三好氏は、阿波と畿内を結ぶ堺を拠点とし、
堺のまちの北端の海岸部に海船館(海船政所)を造ったり、父祖の菩提を弔うために
1556年には南宋寺を建立します。
しかし、三好氏も長慶の死後に分裂すると、堺は戦乱に巻き込まれることが多くなり、
堺の自治組織の中心であった会合衆などの努力によって、都市の独立を維持し
〔茶人・千利休らの文化人を生み出し〕ます。
なお、会合衆は「えごうしゅう」と読まれていますが、「かいごうしゅう」とする説もあります
〔現在、かいごうしゅうが通説になってきている。〕
中世の発展した貿易都市は、往路・復路の船荷を効率よく確保するため、
各地の物産を都市に持ち込むだけでなく、都市内で工業生産を興し、それを各地で販売しました。
商業都市堺も、明の最新技術によった織物や、西欧から持ち込まれた鉄砲を都市内で製造することで、
工業都市ともなっていきます。
イエズス会のザビエルは、マラッカの司令官あての手紙のなかで、
「堺は日本の最も富める港にして、国内の金銀大部分集まるなり」
と記しています。
最近の発掘調査によれば、主要な貿易商品の一つであった金銀を集めるだけでなく、
町の中心部で当時の主要通貨であった銅銭を鋳造していたことが明らかになり、
大変注目されています。
(5)近世産業都市へ
1570年に堺は〔三好一族に変って〕信長の直轄領となり、
1586年には〔まちの発展に合わせて〕周囲の壕が秀吉によって埋められ、
堺は中世都市から近世都市へと移行します。
〔泉州刀などの打刃物や河内〕丹南鋳物師の伝統を受け継ぐ堺の鉄砲は、
今井宗久など新興の豪商のもとで、信長や秀吉の天下統一に大いに利用されました。
(後略)
私注:
堺の通史の端々に、海部氏も関係していそうだ、と思ったのでUPしてみた。
幕府・細川氏は3文献で。三好長慶が海部刀を所持していたこと、など。
郷里では、堺の歴史など、知る方法がないので、ネットででも参考にできれば。