テストと内申書                          2013・19

                                        雑文へ戻る



学校というのは、いろいろ不可解なことをしているものだと思う。

ある中学校では、定期テストで成績を上げられない子供たちを救済するために、
通知表に反映させるから、と表明して、繰り返し単純作業の宿題を提出させたそうだ。

そう表明して宿題を課したのだが、なかなか提出しない子供がいた。

しかし、定期テストでは、好成績を上げ、特に授業態度に問題があるわけでもなかった。

高校や大学なら、

なあんだ、ちゃんと勉強はしてるんだ、
単純作業の宿題なんか、やっていられるか、という感じの子供なんだな、
ちゃんと勉強はしてるんだから、まあ、いいか、

という反応も、予想はできそうに思う。

しかしその中学校では、言うことをきかない子供だから、と、
その子供だけ、テスト成績に関係なく、ゴッソリ通知表の評価を下げた。

母親は内心、このようなやりかたはけしからん、と思った。
なぜここまで、成績に関係ない評価をするのか。
青くなった子供を、どうなだめよう。

そこで学校へ文句を言いに行った。しかし、責任者は言う。

これは、元来は成績の悪い子供を救済するための方法である。
そしてお宅の子供さんだけ、この方法で、ひとり、成績がひどく下がった。

しかしやり方は平等であり公正・厳正であって、学校側には問題はない。
これはみんなのためにやっていることである。
言う通りにしなかったお宅の子供が悪い。

これは、結果はさらに悪くなったようだった。
いわゆるモンスター親に列せられるようになったのではないかと言う。

自分の子供が悪いのに、文句を言いに来た、と、先生が名指しで言っていた、
と、人に言われたそうだ。

教師から親たちへと、人づてに話が回されているのである。
子供の立場も悪くなったように思う、そうだ。

中学には、決して文句を言いに言ってはいけない、とも、忠告する人がいたらしい。

学校は、このようにして、学力を付けることに関心の薄い子供を救済し、
学習しようという意欲も能力もある子供を、叩き潰すのである。

そして親子ともども、地域社会の中で叩き潰す。それが、教育の力である。

  *(私の話にうなずく人は、きっと、悪者扱いされるだろう。真に受けてはいけない。
    私は学校に対しては、極めて特殊で複雑な感情を持っている人間だから。)

私は、こういう話は、寺島弘隆氏と同じだと思う。
         
(私は永遠に告発し続ける。
           世界に発信し続けて、この状況を警告し続けるのだ。
           そうしなければ、警告は伝わらない。
           警告を知らない所で起きること、それがこわい)

また戦前の人間評価と、何も変わらないのだなあ、と思うわけである。

単純命令に従うことが、勉強や努力の本質以上に、重要視されている。
そして弱者救済の名の下に、意欲・能力のある子供を潰すのである。
それが、内申書の中身である。

やってるのに、思い付く限りの難癖をつけて、通知表に「悪」と書きつけるようなものである。

しかし、非常に残念なことに、中学でのこういう話は、学校の先生に文句を言ったところで、
親子の側の情理を納得させることができるほど、先生の頭が、柔らかいわけではないのである。

鈍い先生と、表現力の回らない親との話合いでは、親子の方に何かもたらす、という事の方が難しい。

いや、人間の頭は、大方が硬い、ということだろうと思う。
職業技術・方法論・職場の人間関係などがからまりあって、
一人の人としての判断力は、なくなってしまう、ものなのではないだろうか。

    寺島弘隆氏は特異ではなかろうか。
    一人で周囲を圧倒し、周囲を巻き込んで、成績にまで手を回して、叩き潰す。 

    寺島弘隆氏の場合は、一人の人間としての判断力、の問題である。
    どこにそんなマニュアルがあっただろうか。

    この新規な場面で、この人物のすることに、誰も、何も言えなかったのだ。
    間違いない、と、言って回る行動力と発信力のある人間の、押しの強さと厚顔には、
    腰が引けるところがあるのだろうか。

昔、文科省が子供の意欲を評価せよと言ったから、というわけで、
その意欲をどう評価するか、ということになって、
発表したかどうか、その回数を数えて、客観化することにした、

というのをニュースで見て、これも胸の悪くなるような話だと思ったのだが、
先生もレポーターも、大真面目にやっていて、何か狂ってる、と感じざるを得なかった。

かゆくてたまらない感じなのだが、誰も問題にしなかった。どうなったのだろう。


学校とか人間とかは、この通知表のようなものだ、ということを、
子供は体感して、やっとしぶしぶ認めるようになる。

自由で無邪気な人間への信頼は、こうして無くさざるを得なくなる。


学校への意見

○英語担当の新任教諭と、飯田という国語担当の教務主任と、県教育委員会へ言いたかったこと。

テスト成績はいいのですから、
その子は、勉強しなくてはならないとは、
思っている子供です。

多分、その子は、先生というものは、単純作業の提出物で成績を左右する、
というようなことはしないだろうと思っているでしょう。

つまり、先生は、子供たちの学力向上への関心の方を優先し、

自分のように、他に何も問題のない子供を、それを根拠に拒否するようなことはしないだろう、
と予想しているのではないでしょうか。

それを、先生は、学力向上ではなくて、自分の言うことをきかない、
ということで、公式に全面否定した、ということになると、

これは、子供自身への全面的な否定であり、勉強しても無駄だ、何の役にも立たない、
という意識を、強く植え付けることになるのではありませんか?

学年の一番最初で、そういうことをすると、その子の中学生活全体を、損ねることは必至です。
先生の心にも、一生の禍根と危険を、招くことになるのではありませんか?

ここは一つ、握りつぶしてみて、様子を見てはいかがですか?

それに、単純作業の提出物は、学力向上に役立っているのかどうか、
それを証明する手がかりはありますか?

その子が、自分自身で、提出物と学力には関係ない、と証明しているのですが、
先生はそれを、提出物と学力には、相関関係があるとおっしゃる?

その子の場合について、それをどのように証明するのですか?

要するに、学校の評価基準は、
無条件に服従する子供かどうか、ということだ、
ということを証明する結果になりはしないか、と思うのですが、

学校の教育目標に、生徒の無条件服従を掲げている、
と、胸を張って断言したいわけですか?

他に問題のない成績上位の子供を、学年最初で一人だけ、公式処分として書面に残すことに、
心の痛みを感じないのですか?

私は、子供の心を考えると、とてもそんなことをする気にはなれません。

***
全ては終わってしまったことであり、取り返しのつかないことではあるが、
孫のために抗弁を書き残しておこう。

***
寺島弘隆。私は生き延びた。あなたとあなたに追従した人物たちに、私は、警告し続ける。

***
あの飯田という男は、私たちには、鉄面皮以上の危険人物である。

私は、成績回復に成功しなかったことで、
息子をさらに深く追いやったのではないかと、極めて深刻に考えている。

私は中学入学前に、中学では内申書の成績が大きく反映される。
つまり、学校の先生の言うとおりにするかどうかが、成績に大きく影響するから、
先生の言うことはハイハイということを聞いていれば、問題はないけれど、
余計なことをするとにらまれるから、気をつけろ、と言ったのだ。

息子はまさかという顔で、けらけらと笑った。

それが、まさかこんな形で出てくるとは、思いもよらなかった。

こういう場合、何と注意すれば良かったのだろう。

戦前は、学校の先生が音頭をとって、天皇は神なりと教え、戦地で死ぬようにと教えたものだ。
学校の先生は、私たちと常に同じような気持ちを持っている、などと考えていたら、大きな間違いなんだ。

先生は、自分たちが安全なように、生徒の足を切って捨てるくらいのことは、平気でするものだ。

と言えばどうだったか。それでも全然、説得力がありそうにない。

寺島弘隆も、性格の悪い子供を大事にしてはいけない、と、一生懸命、吹聴して歩いたようである。
性格が良い子供なら、将来に渡って自分も安全だが、性格の悪い子供を育てたら、大変なことになる、と。


そもそも、書き取りの提出物というのは、
通知表掲載の成績評価の対象材料として、
どこの誰に対しても、胸を張って掲示できるものなのでしょうか。

他の授業態度に問題がなかったのなら、それを評価対象にしたら、別の結果が出たでしょう。

母親が言っていた通りに、ささいな、誰でもできるような課題を課して、
それを成績評価に入れる、と、執拗に説明する教師。
それを見ている息子。

執拗に「成績評価」を強調して説明されればされるほど、どうにも納得のいかない息子。
なんとしても言うことを聞かせる、と、躍起の新卒教諭。

書き取りを出したって、テストで成績が上げられなかったら、現実には何の役にも立たないはずだった。
そもそも、単純作業の「提出」が、それほど重大な評価対象になり得るか。

小学校でも提出物を課されたことはあるが、「成績」と、力んで要求されたことはない。
この聞いたことのない状況が、小学校よりも上級の学校で発生しているのだ。

評価というのは、本番で発揮できたことに対して、なされるものではないのか。
問題は、力を付けているかどうか、ということではないのか。

 母親の私だって、この教師と息子の展開は、なんという馬鹿なことをしているのかと思う。
 しかし現状は、学校は全面的に正しい、ということになっているのだ。

 飯田曰く、テストで測れる学力だけを重視するのは、考え方として、バランスが取れているとは言えません。
 なるほど、それは確かにその通り。

 しかし、単純作業の提出物の数が、学力評価の対象になり得るか。
 勉強させて、力をつけさせよう、ということが、心にあるのか。

 結局、無条件服従を飲むか飲まないか、で、冷酷に生徒の足きりをやっているだけではないのか。

 そして私のことを、学力中心主義で、自分の子供のことしか考えない親である、学校教育のことは学校にまかせろ、
 何もわからないくせに、黙れ、と言うのだ。

通知表の成績の、学力テストと、その他の評価対象の種類と、その割合配分は、教師の自由裁量だそうな。

自分の見た目以外の人間の姿が、ある可能性がある、なんて、考えたこともない人が多すぎる。

そういう人に、想像もできないような人間の姿が見えることもある、
という状況を、知らせるべきではないだろうか。