5、ビリャロボス

                                 小説:スペイン太平洋航路目次

ビリャロボスは、ここしばらくの間の、イエズス会修道士フランシスコ・ザビエルとの
長い懇談を思い出していた。                *ザビエルとビリャロボスの出会い

1546年2月、ポルトガルの支配地アンボンに到着した時、ポルトガル総督と共に出迎えたのは、
マラッカから到着したばかりの、スペイン人ザビエルだった。

ザビエルは、ポルトガル人から、スペイン艦隊が投降してアンボンに到着する予定だと聞いて、
マラッカからモルッカ諸島のアンボンまでやってきたのだった。

ザビエルは、布教に携わる修道士ということでポルトガル領を往来していた。
しかしスペイン人として、スペイン側からの要請があれこれと耳に入ってくる。

今何より気がかりなのは、メキシコを出帆したビリャロボス艦隊が、
またもや帰還路発見に失敗して、ポルトガルに投降したということだった。

しかし問題はもっと奥にあった。ビリャロボスが一存であっさり投降を決めた背景には、
帰還路につながる重要な情報が含まれていると言うのだ。

ビリャロボスの密書は、中国船でハルマヘラからマラッカまでやってきていた。
使者はスペイン人で、その名をペロ・ディエスと言った。
密書によると、

日本へ行ってもらいたい。そこできっと帰還路の手がかりが見つかるであろう。
詳細については、是非、直接お話したい。できるだけ早く。
中間地点のアンボンで、お目にかかりたい。ということだった。

ザビエルは、即座にアンボン行きを決意した。

ビリャロボスの体力はひどく落ちていた。それでも、ザビエルへの説明となると、
燃えるような熱意に満ちていた。

*****
私はこの3年間、フィリピンからメキシコへ帰る航路を探して2回船を出したが、
皆失敗した。どうやらフィリピンからメキシコへ帰る風はないようだ。

しかし3年もうろうろしていると、こちらの動きが周辺海域に漏れ始めるようだ。
情報が向こうからやってきた。

東向きの風ならずっと北にある。黒潮に乗って日本を北上すれば良い。
そういう話だ。

こんな好都合な話があるだろうかと思われるほどだが、
実は日本で、我々を迎えようという動きがあるそうだ。

マラッカ陥落の時の報告書、トメ・ピレスの『東方諸国記』は読まれたであろう。
その中に、刀剣を売るゴーレスというのが出てくるのは、ご存知かな?

そのゴーレスというのは、実は日本人らしい。日本は国内で戦争中で、
皆武器を持って戦争していて、大量の刀剣作りなど、お手の物だそうだ。

数年前に、ポルトガル人が、日本の南端にある島の領主に、鉄砲を売ったそうだ。
すると、2年も立たない内に国内の中心部に鉄砲作りが伝わって、
量産が始まっているらしい。

日本南部の太平洋に面した国々の領主の間では、
我々西洋人の文明に関心が強まっていて、
我々スペイン人を歓迎する、と言うのだ。

そして、これが肝心な所だが、メキシコへ帰るために日本を北上するなら、
途中での、秘密の補給港も提供できるかもしれない、と言うのだ.

ご存知のように、ポルトガルとの協定では、表向き、
日本と関わることはできないことになっている。

そこの所は彼らも承知していて、なお、
秘密の場所が提供できるかもしれないと言ってくれているのだ。

どうか日本へ行って、彼らに直接会って、補給港の話を取りまとめ、
帰還路についての情報を、手に入れてもらいたい。
そして連絡ルートを確保してもらいたい。

ペロ・ディエスの話を聞かれたかね。いやあ、私も驚いてしまったよ。
マゼランが殺された影に、日本人がいたとはね。

今回、ハルマヘラで行われたポルトガルとの戦いで、
彼らはマゼランとの戦いを再現してくれた。
あまりにも見事で、舌を巻いたよ。            (参)

彼らもこの海域で長く活動してきていて、
住民の一部には食い込んでいるんだ。

非常に知力のある人々で、味方にできれば心強いが、
敵にすれば手ごわいだろう。

いずれ日本から連絡が来るから、マラッカで待っていてもらいたい。
*****

******
ビリャロボスに連絡してきたペロ・ディエスは、

フィリピンにスペイン艦隊が派遣されたのに呼応して、
東アジア情勢を探査していた、スペインの秘密調査官だった。

彼はポルトガル人と見分けが付かなかった。

彼は薩摩にやってきて、帰還路について、重要な情報を手にした。
日本を北上すれば東へ向かう風があるというのだ。

薩摩は目下、堺・種子島・琉球・中国・ポルトガルの船が出入りする拠点になっていた。
ポルトガル人の現地スタッフは、目前の通商のことばかり気にしていて、
あえて東行きの風を聞くようなことはしなかったが、
ペロ・ディエスは別だった。

ペロ・ディエスは、南海路関係者に内在するスペインとの通商要望を、
航路開拓につなげる努力をした。それは、良い兆候を見せていた。
堺の関係者が請け負う向きを明らかにしたのだ。

そうこうしている内に、モルッカ諸島の紛争で、
薩摩武士が、ポルトガルに対抗する現地勢力に、軍事顧問として加勢するという話を聞いた。

すぐそばに、帰還路発見に失敗したスペイン艦隊がいるらしい、というところまでわかった。
そこで、薩摩武士と同じ船に乗って、モルッカまでやってきたのだった。

その薩摩武士は言った。
「1521年にマゼランが来た時に、マクタン島首長ラプラプに戦略を授けたのは、この私だ」

「見ていろ。ポルトガル人相手に、原住民がどんな働きをするか。
マゼランの時も、背後に私がいたのだ、ということを証明してやろう」

ペロ・ディエスは、日本情報と、交易と、メキシコへの帰還路の情報を持って、
ビリャロボスに報告しに来たのだった。