サン・フェリペ号事件
スペイン太平洋航路
長崎26聖人殉教との関連でよく扱われる事件。
しかし私は、長宗我部氏がそれ以前に、約10年間(1575年〜蜂須賀家政入部1586年)海部を支配していたことが気になる。
スペイン船が毎年、フィリピンからメキシコまで、太平洋を日本近海まで迂回しつつ運行していて、
寄港地が海部であるという仮説に立つならば、
長宗我部氏は当然、スペイン船との交渉に当たった経験があることになるからだ。
サン・フェリペ号は、あるいは、長宗我部氏を頼って浦戸湾へ向かったのかもしれない、という仮説も成り立つ。
ところが、長宗我部氏も、浦戸では、極秘処理ができなかった。
ということかもしれない。
1564年出発の、フィリピン植民地化目的のスペイン船団の出発時には、
「悪天候でやむなくこの方面に至った」という口実で、種々の情報を入手せよ、
という指示書があった、と、
伊藤章『マニラ航路のガレオン船』p120にはある。
(この本は非常に読みにくく、価値判断しにくいが、情報が枯渇状態なので、参照させていただく。)
考えてみれば、座礁して船が壊れてしまったのは、1609年のサン・フランシスコ号くらいである。
他は、入港の口実だった可能性も、なきにしもあらず。