スペイン太平洋航路(マニラ・ガレオン)250年の疑問
・・・鎖国日本への寄航の可能性を探る・・・
幕末のペリー来航・日本開国の前提条件
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☆ 私見:スペイン太平洋航路と日本人:概説 ☆
1、 室町時代からの海上交通と勘合貿易
2、 ヨーロッパ人の登場と太平洋航路発見
○地理的空間に見るスペイン太平洋航路
ガレオン船の航路図と太平洋航路
航路図:発見者ウルダネータの航路(別航海記録を含む想定日本近海航路・松田毅一『慶長遣欧使節』朝文社p31)
世界海流図:茂在寅男著『古代日本の航海術』小学館p92
日本近海海流図:茂在寅男著『古代日本の航海術』小学館p83
マゼランの航路と大圏航路:増田義郎『太平洋・開かれた海の歴史』集英社新書2004年p53
鈴木『物語フィリピンの歴史』
(上記の画像リンクは各出版社へ連絡済です)
参考: 1613年・伊達政宗派遣(支倉常長乗船)サン・ファン号航路図
(宮城県・慶長使節船ミュージアムHPより)
*スペインの太平洋航路発見航海から約50年後
ジョン万次郎航海航路に見る1840年代の世界航路
(土佐清水市・「ジョン万次郎資料館」掲示図より「万次郎大航海記」)
( 画像リンクは連絡済です)
(このページで使っている資料は、2008年・2009年の両年の夏に、海陽町婦人学級で私が準備した資料と、
相当重なっています。資料については、海陽町立博物館に問い合わせてみてください。)
1、多数の乗船者・莫大な積荷
1年1回、フィリピン経営の命綱という重責
2、フィリピンからメキシコへ、1565年の帰還航路発見の経緯に見る疑問
3、スペイン太平洋航路250年が、情報発信されないことについての疑問
4、「1565年以前」と「現代」にもある産金情報が、ガレオン貿易と植民地情報から消えることについての疑問
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(1)スペイン太平洋航路(大圏コース)
1、1565年から1815年まで、太平洋を回り続けたスペイン船
スペインはフィリピンを植民地として維持するために、ガレオン船でメキシコとフィリピンの間を回り続けた。
(ネット辞書ウィキペディアには110回の航海となっているが、出典不明。
以下のように5文献が、毎年のように航海していた、と書いてある。そうだとすれば、250回であるが?)
(参:『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社2001「ガレオン貿易」、
『フィリピンの事典』同朋舎・1992、 『東南アジアを知る事典』2008平凡社、
『世界歴史大辞典』教育出版センター・1995、
池端雪浦編『東南アジア史U島嶼部』山川出版社・1999・毎年回っていたスペイン船、
鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』中公新書・1997)
2、日本近海を北上する帰路のコースについて
(参:増田義郎『太平洋―開かれた海の歴史』集英社新書・2004、
松田毅一『慶長遣欧使節』「5回の東行路(帰還路)探検航海」朝文社・1992、
伊東章『マニラ航路のガレオン船(副題:フィリピンの征服と太平洋)』鳥影社・2008、
鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』中公新書1997
3、日本に漂着したスペイン遭難船の例
@1589年、天草・崎津(参:増田『太平洋・開かれた海の歴史』p75)
参考:崎津天主堂(最初に建てられたのは1569年と説明されている)
A 1596年、土佐の浦戸湾、サン・フェリペ号(乗船者233人)
(注:1575年から約10年の海部支配を経ての、長宗我部氏関連事件)
(参:松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』「サン・フェリペ号遭難報告書」・増田『太平洋―』)
B 1602年、土佐清水港、エスピリト・サント号(サント・スピリット号)
(参:松田毅一『慶長遣欧使節』
C 1609年、千葉御宿沖、サン・フランシスコ号(乗船者373人)
(参:日経新聞2008年9月22日・松田『慶長遣欧使節』)
( 外務省日本メキシコ交流400周年・ 千葉国際情報広場・日本メキシコ交流400周年)
(在メキシコ日本国大使館・日墨交流400周年)
D 1609年、豊後中津浦、サンタ・アナ号
(1609年は3隻の船団。もう1隻のサン・アントニオ号はそのままメキシコへ)
(参:松田『慶長遣欧使節』)
E1616年、土佐清水港
(参:『高知県の歴史』山川出版社・2001・P194・P196)
(2)中世の海外交易と太平洋側の航路
(日本の太平洋側事情・日本とスペインが遭遇する以前の世界)
1、明の朝貢貿易(東アジア交易の基調)
1368年、元が滅亡して明が成立。明は建国当初から、国家の公的使節の入出国・貿易しか認めなかった。
反体制派と外国勢が結びつくことがないようにするため。(「冊封」「海禁」「勘合」による、国家主導の貿易の管理政策)
2、琉球の海外貿易
自国に貿易品を確保するための、明の琉球に対する優遇措置。
・抜群に多い朝貢回数が認められた。(171回・日本は19回)
・朝貢貿易用の海船を与えた。
・江南人を送り込んで、外交・貿易のやり方を教えた。など。
琉球は、広範囲な交易ルートのかなめとなった。
(参:村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書・1997・P67)
3、瀬戸内海事情と、太平洋側・南海路の遣明船(応仁の乱から大内氏滅亡まで)
遣明船は全部で19回。初期は兵庫(神戸港付近)を出て、瀬戸内海航路。
応仁の乱をきっかけに南海路が開拓された。堺を基地にした派遣が5回。
**南海路(堺・阿波沖・土佐沖・九州南端まわりの航路)
細川氏と大内氏が中国で争った「寧波の乱」(1523)。細川氏締め出される。
(参:田中健夫『倭寇と勘合貿易』p96〜p109から自作資料)
参考として、1445年の兵庫北関入船納帳に見る海上交通・太平洋側
(参:千葉国立歴史民俗博物館資料NO.16「兵庫北関入船納帳にみる港湾と物産」)
4、堺・琉球間貿易
1403年から1466年まで、琉球船が兵庫へ来ていたのが、少なくとも15回は確認できる。
(参:吉田豊「中世堺の琉球貿易」堺市博物館報25号・2006より「応仁の乱以前の琉球貿易」)
応仁の乱(1467)以降は、堺商人の琉球渡航が増加。(1471年の史料あり)
細川氏と堺と琉球貿易の関係の確認
(参:吉田豊「中世堺の琉球貿易」堺市博物館報25号)
寧波の乱後、堺商人にとって、南方物資の獲得のために、南海路はますます重要になった。
(参:的場節子『ジパングと日本』吉川弘文館2007・P140)
(3)貿易を主導した?日本刀、ポルトガルとスペイン、フィリピンでの日西の遭遇
1、@遣明船貿易での刀剣
応仁以後、公貿易の中心は刀剣だった。日本刀12万本輸出。
値段4・5倍。日本刀を賞賛する中国人の漢詩。
(参:田中健夫『倭寇と勘合貿易』至文堂・昭36、P125・126、
田中博美「遣明船貿易品としての日本刀とその周辺」東京大学史料編纂所報1989)
A琉球経由の遣明船貿易での刀剣
明では10倍の値段で売れた。日本刀14・5万本輸出。(注:琉球が輸出した刀剣について)
(参:的場節子『ジパングと日本』吉川弘文館・2007・P86)
2、ポルトガルの動向
@1511年にポルトガルによって陥落したマラッカ
(参:自作資料「マラッカ」、
この自作資料文中の商人たちの出身地については村井章介『海から見た戦国日本』P108に多数の例
9世紀の中国在留外国商人について、的場『ジパングと日本』P56)
それまで毎年3・4隻の船でマラッカに来ていた琉球人
(参:的場『ジパングと日本』p91、1518年マゼラン報告書「琉球」)
琉球人がマラッカ現地軍に持ち込んだ日本刀
(参:的場『ジパングと日本』1490年のイブン・マジードの記録中の「リキーウー」・P95、
1515年までに成立したとされるトメ・ピレス『東方諸国記』(岩波書店・1966年)の中の引用文・P435、
あるいは、p248の武器を製造するレケオ人(琉球人)の情報)
*刀剣を売る勇猛な「ゴーレス」に関する情報
A中国沿岸経由のポルトガル船と日本銀
3、スペインのフィリピン植民地化
@1521年、マゼランのフィリピン寄航によって、スペインが権利の手がかりを獲得。
(参:マゼランについては茂在寅男『航海術』中公新書・昭和42年P90〜P99、鈴木『物語フィリピンの歴史』)
Aその後のスペイン遠征隊は、太平洋を東へ戻るのに失敗し続けた(1545年ペロ・ディエスによる日本情報)
1467年の応仁の乱で始まった太平洋側航路「南海路」と、
1523年寧波の乱で締め出された細川勢力(「勘合貿易と南海路」)
B1565年、突然、日本近海へ北上、さらに北上し、北緯40度付近で偏西風を捉え、そこから東向して、メキシコへ帰る航路を開拓。
ウルダネータ指揮する船が、1565年6月1日フィリピンを出帆、10月8日メキシコ・アカプルコに帰着。
約4ヶ月の航海で、無寄航ということになっている。(これは以下の(4)疑問に述べるように不自然である)
(ウィキペディアの記事は「7月1日出帆」となっているが、これは間違いか歪曲であろう。
伊藤章著には、細かい日付入りで、日誌らしき記録が掲載されていて、動かしようがない。増田著も6月1日。)
出帆日について・伊東章『マニラ航路のガレオン船(副題:フィリピンの征服と太平洋)』鳥影社2008年
(参:前出・増田義郎『太平洋・開かれた海の歴史』集英社新書、前出・松田毅一『慶長遣欧使節』、
伊東章『マニラ航路のガレオン船(副題:フィリピンの征服と太平洋)』)
C1565年以前にフィリピンに日本刀を持ち込んだ日本人、主目的は「金」
(参:的場節子『ジパングと日本』P178〜P181・金のない島はない)
Dウルダネータの経歴
(注:1581年より、スペイン・ポルトガルは、同じ国王に。)
(4)スペイン太平洋航路(マニラ・ガレオン)250年の疑問
1、航路発見の経緯が不自然に見える
****
マゼランは最初、@ポルトガル船でアフリカ南端・インド洋・マレー半島、さらに東へと進んで「マゼラン報告書」を書き、
その後、Aスペイン船で南アメリカ南端を回ってフィリピンに到達した。
マゼランがスペインの船でフィリピンに到達したのは1521年。
この「マゼラン探検隊」でさえ、フィリピンに毎年、数隻の琉球(レキー)船が来ていたと報告している。
(多言語に接する中でのレキーを、状況からみて即、琉球と読んだ方(的場氏)もいるし、私も同感である)
日本からすれば、1521年には、琉球を介して、フィリピン往復航路がすでにあったということである。
また、1467年の応仁の乱以降、堺・琉球間の太平洋航路が開発されていた。
北緯40度付近の偏西風をスペイン人に教えたのは、
的場著に出てくる、「日本刀をフィリピンに持ち込んだ日本人」ではないか、
それは堺・琉球航路の途中にある阿波「海部」の人々ではないか、 というのが私の疑問****
より現実的には、日本人冒険商人たちに海部や東風情報を託したとした方がいいかも。
フィリピン・琉球・日本と、黒潮をたどる海上交通路について
2、太平洋側で中世根本史料の確実情報として、最大の港だった、阿波「海部」の情報の、歪曲・削除が激しい。
もし仮に、近畿中央で実権を握った三好長慶と義兄弟という説が本当なら(三好長慶が持っていた刀は海部刀である)、
1540年代から1564年までの時代、海部氏は、軍資金集めに躍起だったはず。
江戸時代中、藩の正規鉄砲隊80人が常駐していた。
那佐湾は江戸時代、道がない湾だった。
大阪との交通頻繁。(注)
「水平線までの距離」でネット検索すると、波打ち際の人の目線では、4.5キロまでしか見えない。
これを那佐湾近辺のグーグル地図に重ねると、ちょっと沖合いは、もう見えないことになる。
太平洋は見通しがいい、というのは、全くの錯覚である。
宍喰に「竹が島」があるので、視線が遮られ、甲浦からも、措置によっては、大船が来ても見えないだろう。
出羽島も竹が島も、那佐湾の方向には人家がない。
江戸時代の街は、板塀で囲まれ、通交制限が容易な構造である。
山上と、宍喰・大里の海岸線の視線を警戒するなら、措置によっては、
大船が那佐湾に接近しても、わからない可能性はあるのではないか。
3、漂着船が、日本で支配者交代が相次いだ時期に集中して、6隻もある。
4、真逆の産金情報
「1565年以前」と「現代」との双方で、「砂金のない川はない」とされるほどの多大の産金情報が確認できるのに、
ガレオン貿易の説明で「金」情報が記載されないのは不自然である。
(参:多大の産金情報、『フィリピンの事典』「金」、 的場『ジパングと日本』P178〜181。
ミンダナオ日本人商工会議所ホームページ・鉱工業(世界有数の産金国)
広瀬隆『アメリカの経済支配者達』p65(1898年アメリカがスペインに勝ったという記事に「産金国フィリピン」の言葉)
大野拓司編『現代フィリピンを知るための61章』明石書店2001年p251(鉱山資源は豊富。金の埋蔵量世界3位)
以下は逆の情報(共に歴史に関するトップクラスの研究者)
池端雪浦編『東南アジア史U島嶼部』山川出版社・1999・p100、「貴金属の鉱産物はほとんど発見されなかった」、
松田『慶長遣欧使節』p32「フィリピンには特産物として収入源となるようなものはなく」)
5、幕末に、欧米の船が薪水を求めて開国を迫ってくるのに、
スペイン船が、日本近海を航行しながら、250年間日本には全く立ち寄っていないというのは、不自然である。
フィリピンを出航して、腐敗する水、食料の欠乏、壊血病、暴風雨その他、襲いかかる死の危険を、
多数の乗船者が、予想して乗り込んだとは思えない。
壊血病
6、日本から出発して北太平洋大圏航路で新大陸へ渡った船
○三浦按針(ウィリアム・アダムズ)が作った船(1610年)
○伊達政宗建造の、支倉常長が乗った船(1613年) 宮城県・遣欧使節船ミュージアム
○幕末の咸臨丸(1860年) 「咸臨丸子孫の会」からいただいた、追い越す米国商船の情報
(大圏航路は既に一般化された航路か?)
北太平洋大圏航路は、その後、輸送大動脈となってくる。1565年の発見航海が取り上げられないのは不自然である。
7、1565年から1815年までの、スペイン太平洋航路250年の知識が、
最近の千葉御宿メキシコ友好400年を扱う新聞記事にも全く出てこない、
これは、東南アジア・フィリピン・スペイン史では常識であるが、
スペイン遭難船救助の友好記念行事でも、
関係者の間では、「毎年」運航していた、という話が、知られていなかった。
「毎年運行」に関して、電話連絡の上、それを知らなかったことを確認した所。
千葉・御宿町教育委員会、
千葉県総合企画部国際室、
外務省・日本メキシコ交流400周年記念事業事務局
日本の海上交易の歴史を書いてある本にも出てこない、これも、不自然である。
8、真逆の二説
2008年時点では、本を見た限りでは、フィリピン植民地経営のスペイン側の評価に、
赤字だったという説と、ボロ儲けだったという二説がある。
この矛盾には、からくりがあるのではないだろうか。
(参:松田『慶長遣欧使節』、逆は『物語フィリピンの歴史』)
産金情報も真逆の2説がある。これにもカラクリを感じる。(辞典・事典類、的場著と東南アジア史)
9、ヴァンダービルト家とペリー提督
幕末の頃の太平洋航路で気になること。
10、ポルトガルが支配してきたアフリカ南端の喜望峰を回るルートが、
18世紀末になって、開放されたことの影響を考える。
この情報はネットサイトのナビ・マニラからです。
マニラ・ガレオンで検索すると出てきました。
出典とリンク許可を問い合わせたのですが、
2週間たっても返事がなく(海外は届かないこともあるみたいでしたので)
リンクさせていただきました。