『太平洋ーーー開かれた海の歴史』増田義郎著・集英社新書・2004年より

                                                 スペイン太平洋航路へ戻る

 P55
 マゼランの航海(1521年フィリピン到達)の後も、太平洋の幅は実際の3分の2程度にしか見積もられなかった。

しかも太平洋は、アジアにおけるトルデシリャス条約(1494年・スペインとポルトガルの世界分割協定)の境界線の東にあると見なされたから、
当然のことのように、スペインの主権下にある海とされた。

すくなくともスペイン王室はそう考えて、太平洋への他国船の航海は違法行為であるとした。

それではスペイン人自身はこの「スペインの湖」でどのような活動をくりひろげたか。

太平洋の広さを知らなかったのは大きな誤算だったが、それでもしばらくは、香料諸島探求の試みはなされた。
すなわち太平洋を西に進んで香料諸島に行こうとするスペイン人は、あとを絶たなかったのである。
ところがそのほとんど全部が失敗に終わった。問題は太平洋航海の困難にあった。

アメリカ大陸から太平洋を西に向かって航海することは比較的容易だった。しかし、いったん香料諸島なりフィリピンなるに到着してから、
あらためて東に向かって、アメリカ大陸に帰着する航海は、ことごとく失敗に終わったのである。

西廻り香料諸島行きの計画をいちばん先に断念したのはスペイン国王自身であった。あまりにも莫大な費用が浪費されるのを見て、
カルロス王はポルトガル側と秘密交渉をおこない、1529年4月、サラゴッサで条約を結んで、35万ドゥカードで香料諸島に関する権利を
放棄することをポルトガル王室に約束した。スペインの言い値は100万ドゥカードだったのだが、足元を見られて値切られたのだそうだ。

にもかかわらず、その後太平洋を西から東に向かうスペインの航海者の努力は続けられた。
しかし目標は香料諸島からフィリピン諸島に移された。

ポルトガルは東アジアで活動を開始しており、1543年には日本に到達していた。1557年には中国のマカオに基地を獲得している。

だからスペインは、なんとしてもアジアに基地が欲しかった。ところが航海の難点は解決されなかった。
つまりアメリカ大陸側からフィリピンに渡航するのは可能でも、帰路で逆風や海流に流され、どうしても東に進めなかったのである。

1525年から1555年の間に、アメリカ大陸側から6回の試みがなされたが、往路はなんとかなっても、帰航にはすべて失敗している。

メキシコから船を出しても、そこに帰れないとなると、スペイン領フィリピンは維持しようもない。


「大圏航路」の発見〕P57

この難問を解決したのが、1565年のアンドレス・デ・ウルダネータの航海である。

ウルダネータは、過去の太平洋探検に参加した経験があり、その後聖アウグスティヌス会の修道士になっていたが、
1559年、スペイン国王フェリペ二世がメキシコ副王にフィリピン諸島植民のため船隊派遣を命令したとき、
その航海技術を買われて、航海に参加したのである。

400人が5隻の船に乗り組んで、メキシコを出帆したのは、1564年11月、
総指揮官はミゲル・ロペス・デ・レガスピであった。

船隊は順調に航海を続け、マーシャル諸島のいくつかの環礁に接触しただけで、翌年2月はじめ、フィリピン諸島の東部に到着して、
同月サマル、ボホール、セブの諸島でスペイン国王のための領有宣言をし、5月8日にはセブ島にサン・ミゲル市の位置を定め、
ミサを行って建設を宣言した。

その間にウルダネータはメキシコへの帰航を企てた。彼はサン・ミゲル市建設の3週間後の6月1日、サンパブロ号というガレオン船で
セブ島を出帆し、8月3日までに、それまでの航海者が考えなかった、思い切って高い緯度に上って、そこから西に進み、10月8日
メキシコのアカプルコ港に到着した。

2万キロメートルを130日で走破する大航海だった。

この航路は、まず黒潮に乗って日本の近海を北上し、北緯40度のあたりを吹く偏西風をとらえて、
東行するものであった。

このいわゆる大圏航路によって、フィリピンからアメリカ大陸に航行する道が確定し、
メキシコ副王領の出店としてのフィリピン諸島の位置が定まったと言っていい。

アカプルコ港を出たガレオン船は、そのままほとんど真西に航海し、北太平洋の島の少ない海域を航海してフィリピンに至るのだが、
途中マリアナ諸島南部の島に寄航するのがふつうだった。

帰りはどこにも寄航せず、大圏航路によって一気にカリフォルニアのメンドシーノ岬まで至り、
そこからは沿岸航海をしてアカプルコに帰ったのである。

マリアナ諸島はマゼラン船隊が寄航したところでもあり、(中略)17世紀の後半からイエズス会の布教がはじまってマリアナ諸島と名を改められ、
1681年以後、スペイン本国から派遣された総督がグアム島に駐留するようになって、

ガレオン船の正式の寄港地となった。