『東南アジアを知る事典』平凡社2008より

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「「ガレオン貿易」

スペイン本国とインディアス(新大陸およびアジアの植民地)の間で、
ガレオン船と一般に称された大型帆船を使用し、
王室官吏の下で行われた、貿易許可港と特権商人による、重商主義的な制限貿易、また、その貿易制度

なかでも、スペイン領フィリピン諸島マニラと、メキシコ副王領アカプルコとの間で制度化され、
太平洋を挟んで、16世紀後半から19世紀初めまでの約250年間にわたって行われた、マニラ・ガレオン貿易をさす。

1565年にフィリピン諸島・セブからの太平洋横断航路が開拓されたことを端緒とする。

1571年に建設されたマニラ市は、中国・福建からのジャンク船貿易を組み込んで
中国産生糸・絹織物を中心とするアジア物産(後にインド・コロマンデル海岸からの綿布が加わる)を中継輸出し、
新大陸の銀を輸入することを骨子とした、ガレオン貿易の運営主体でもあった。

当時の東アジア世界とヨーロッパ世界における金銀交換比率の差を背景に
スペイン植民者および中国商人は莫大な利益を手にし、

マニラ市は17世紀初頭まで福建と新大陸市場を結ぶ交易の結節点として、
東南アジア随一の植民都市に変貌した。

しかし、スペイン・アンダルシア地方の特権商人による大西洋貿易および新大陸市場での利益と競合したため、1580年代以降、
貿易額や船団数等に制限が課せられ、1593年には、貿易年額はマニラからの輸出が25万ペソ、輸入が50万ペソまでとされた。

以後、細部に変更はあったが、ガレオン貿易は、18世紀中葉に至るまで、スペインのフィリピン経営の柱をなし、
諸島の産業や資源開発は関心の外におかれた。

しかし、ヨーロッパにおける繊維産業の発展、イギリス等の海上活動の活発化は、新大陸における密貿易を深刻化し、
太平洋でのガレオン船の安全を脅かした。

1778年にはインディアスを対象にした自由貿易令が公布され、マニラ・ガレオン貿易は制度として存続しえず、1813年の勅令に従い、
1815年に廃止された。

ガレオン貿易は、スペイン人のマニラ集中をもたらし、地方への関心をそいだ結果、
18世紀末葉に至るまで、総体として、フィリピン植民地社会は急激な変化を免れた。

一方、福建からの中国人の恒常的な流入は、カトリシズムを基底に据えた統治政策の下で、
19世紀末葉のフィリピン革命につながる民族意識の高陽に指導的役割を果たした混血の子孫「中国系メスティーソ」を生み出し、
現代フィリピン社会の指導層・支配層の問題に接合する。

世界史的的に見ると、マニラ・ガレオン貿易は、約250年にわたる安定的な銀の供給源であったため、
大西洋経由による新大陸銀の流通とあいまって、その世界的規模での流通に寄与した。

とくに、16世紀から17世紀の間、日本銀の大増産とともに、中国経済の拡大を支え、銀が広域決済手段として確立する過程での
膨大な需要を充たした。

これは、すなわち、ヨーロッパ勢力を巻き込みつつ、アジアの「交易の時代」を支え、「銀経済圏」を成立させたことを意味し、
その後のアジア諸地域の近世・近代のありかたを規定する要因ともなった。(菅谷成子)