昔の暮らし        20200625

                             戻る


   聞いた話はどこまで本当かわからない、ということをお断りしておく。

【実家】
私の実家は、江戸時代?はもっと山奥?若松という所に住んでいたのだそうだ。
明治になって現在地に出てきた。

登記簿では、登記制度ができた明治20年代に、隣地と共に?登記されている。
家は隣り合う二軒分で、私が知っている範囲では、よろず屋の商品で満杯だった。


   以下は記憶の始めの話である。

【障子紙の五弁の桜】
川沿いの家の前の昔の道路と、昔の堤防の上の道は、
とがった小石を敷き詰めただけだった。砕石らしかった。

その道を、荷車を引いた馬が歩く。
時々、落とし物をしていくが、そのまま放置していくので、閉口するのだった。
ハエがブンブンしていた。

そして家の前の道を、バスが走っていた。
馬とバスが同時期に走っていたかどうかはわからない。
道にくぼみができ、雨が降ると水たまりができるのだった。

そして、どうした拍子にか、小石が飛んで店のガラスが割れたりすることがあった。
昔のガラスは薄かった。

祖母はそのひび割れたところを、細く切った障子紙で補修し、ポイントを、
同じく障子紙の五弁の桜で飾ったものだ。

どうやったものか、ピシッとした切り線で、今で言うと、機械でカットしたもののようだった。
私はあのような切り線はできない。

それに、どうやったら五弁の桜ができるのか、長い間わからなかった。今はネットに出てくる。
先がちょっと割れている、桜の花弁だった。


【お餅・かしわ餅・ういろ】
お正月はお餅を作っていた。石臼があるのだ。一回だけ、父が杵を振るっていたのを見たことがあるが、
大抵は、女手で、杵でこねるようにして作っていたのだと、思う。

米を石うすですりつぶして、餅取り粉を作っていた。二つの刻みの入った石臼を重ねて、
上の穴から少しづつ米粒を落とし、上の石に取り付けた取っ手を握って、上石を回してつぶす。
すると、間から粉が出てくる。そういう石臼もあったのだ。

お供え餅、のし箱(ではなくて、「もろぶた」と呼んでいた)で平たく伸ばした餅、
丸い餡入り餅、芋餅。(ふかしたサツマイモを練りこんだ餅)
春には野山で摘んできたヨモギを入れたヨモギ餅。

五月の節句には、山で摘んできたツル性植物で挟んだ餅を「かしわ餅」と言って、作っていた。
本物の「かしわ」で作った餅は香りがない。しかし、
この山で取った葉で作った「かしわ餅」は、香り高い餅だった。

祖母は「ういろ」も作ってくれた。


【押し寿司・イカめし】
人が集まる時には、型にすし飯を入れ、中に具材を入れて、上にすし飯を入れ、
上から押して作る「押し寿司」を作っていた。

イカの腹にもち米を入れて作る「イカめし」も作っていた。おいしかったけれど、
もはや、作り方はわからない。

駅弁でその名で売っているものを食べてみたが、全くの別物だった。
その地へ行けば、食べられるのだろうか。


【かまど】
昔は釜でご飯を炊いていた。二つ口のかまどがあって、その上に「せいろ」を置いて、
色々な蒸し物も作っていた。

【井戸】
台所には井戸があったが、私が知っている頃には、台所は水道を使っていて、
その井戸は、風呂用だった。

井戸から風呂まで、鉄の筒がつながっていて、手押しポンプを押すと、
井戸の水が風呂に流れ込む、そういう仕掛けになっていた。

【電話機・ミシン】
壁掛け式の黒い電話があった。丸い筒のような受信器を取って耳に当て、
壁の機械に話す形式だった。よその家の人が、その電話を借りに来ていた。

シンガー製の足踏み式の真っ黒なミシンがあった。買い替える前の物はそうだった。
私の記憶では、天板も、網目の真っ黒な鋳物だったように覚えている。
しかし、そんなスタイルのものは、古物を探しても探せない。
従って、私の記憶の確認はできない。


【押絵人形】
祖母は押絵人形を作って売ってもいた。

店じまいを予定した最後の頃は、いい生地が無くなってしまった、と言っていたが、
子供の私の目で見ても、良くは見えない物になってしまい、
売れ残りを身内が引き取って行った記憶がある。

【縫物】
近所の女の子が亡くなった時、そのお母さんに頼まれて、
その子の経帷子を縫ったことがあった。

私は、そのお母さんが駆け込んできて、祖母に頼み込んだ時に居合わせたのだ。

今思うに、お葬式に間に合うように経帷子を縫い上げるよう、頼まれるなんて、
信用のある縫い手でもあった、ということだと思う。

私が覚えている、祖母が縫っていた物というのは、黒っぽいものばかりだったように思う。
縫い賃をもらって縫う人が縫う物は、華やかなものだろうと思うのだが。



以上、『海部町史』の私の実家の記事は、嘘八百のインチキ中傷記事であることは間違いない。
公文書に個人の嘘の中傷記事を残すのは、犯罪ではなかろうか。

私は死ぬまで、いや死んでも、名誉のために働き続けるのだ。