『海部町史』の実家の記事を否定し、その犯罪行為を弾劾する。


   負けるものか。絶対に。こんなにやられて、どうするのだ。
  人生は戦いである                                    (20191229)


                                   実家の昔の暮らし20200625

2011.4.16
 『海部町史』を確認する機会のある方に申し上げる。私の実家について、
下着を意味する俗語を使って、目立つ表示をしていたという記事がある。

しかし、母もそのような事実は知らなかったし、近所の人も、聞いたこともないと言っていた。

私の実家は、炭・練炭を始め、文具、箸や皿、鍋・釜・しゃもじ・お玉などの台所用具、
縄やロープ、釘、針金、のこぎり・かんな、かなづち、山や材木用の定規、
肌着、作業着、帽子、笠、傘、調味料、食用油、種子、裁縫道具、糸、生地、ゴム、
弁当箱に水筒、クワや鎌、おけ、バケツ、石鹸、チリ紙、
ほうき、ちり取り、洗濯板、

こういう、あらゆる品物を扱う商店だったのであり、
下着を俗語?で特大表示することに、商売の意味はない。

したがって、私は、これは、寺島弘隆氏などを経由した、中傷であろうと想像している。

学校はよく言う。
   学校は「生徒全員」のことを、よく考えている。
   教室での子供の様子は、教師が一番よく把握している。

しかしそういうセリフは、私の経験に照らせば、全く何の意味も持たない。

私の経験に照らせばそれは、生徒全員のためには、徹底的に一人を叩き潰し、
徹底的な平均化・無能力化・従順化を図ることだ、羊の群れのように、ということのようだ。

             6年時の担任、寺島弘隆教諭の犯罪的行為について

                小学5年の時である。教室の中で、一人本を読んでいた私に、
                 「おい、話をしよう」と声をかける男子がいた。

                私が嫌な顔をしたら、いきなり背中をどつく。
                 その男子は、4回も「同じ」ことをした。

                全力で暴力を振るう男子に、
                力では負けるとわかった私は、嫌いまくった。
                            
                寺島弘隆は、その男子の家の、隣に住む教師だった。

                寺島弘隆は、男子は悪くない。男子を言い負かす私が悪い。
                「私の性格が悪い。だから矯正するべきだ」と、私の親に進言し、

                私を男子とくっつけようと、机を並べさせて監視しつづけ、
                さらには「張り付け」、と、男子をそそのかしたのである。

                執拗で悪質で卑劣な男が、教師と言う権力的立場で、陰湿に立ち回る。
                             
                町史に、「私」の家の中傷を書き込むような人間は、他に思い当たらない。

                祖母はキリっとした、古風で着物の身じまいの正しい、
                質実剛健、昔気質の明治女そのものだった。  
                           
                言葉に「お」がついた。お水、お茶、お茶わん、おしゃもじ、お皿、おつゆ、お団子。
                お鍋、お盆、お味噌汁、おさじ、おはし。(みんな台所関係!)

                町史にいい加減な中傷を書くなんて、悪魔的な人間性むき出しである。

                          補足:20220502壺井栄『二十四の瞳』
  
                                                                                      

20191229

人形で思い出したけれど、実家の祖母は、よろず屋を営みながら、
春になると押絵の人形を作って売っていた。覚えている人はほとんどいないと思う。

結い上げた日本髪に、金銀や、赤や緑の色紙のかんざしをはさんで、
繻子?の黒髪、絹のちりめんや錦の帯・着物をまとっていた。

もち米?を炊いて、ヘラで一粒一粒、ていねいにすりつぶしたものが糊だった。
             (たぶん、当時の市販の糊では、作業に必要な粘着力や、粘りながらも切れる性質が、なかったのだと思う。
              祖母のやり方が伝統的なもので、不正や吝嗇ではないと思う。
              中傷する人がいたのだ。食べ物を糊に使ったりするから、虫にやられて傷む、等。

              昔のひな人形の接着剤は何だったのだろう。
              余程の耐久性を求められるものでなければ、一般的には、祖母のやり方ではないだろうか。
              機会があれば調べておこう)

台紙に綿を乗せ、生地で覆って、裏側で、台紙の縁に沿って、糊で周りを貼って止める。
そうして作ったパーツを組み合わせて人形に仕立てる。

祖父母には子供がいなかった。それぞれ自分たちの甥と姪を、成人養子にした。それが私の両親である。
かなり年の離れた祖母だった。

その人が作る押絵の顔は、江戸の浮世絵風で、子供の私には、かわいく見えなかった。
今から考えると、田舎では贅沢なものだったのだろうけれど、好きではなかった。

教えてあげようか、と言われたけれど、全く興味がなくて、機会をなくした。

郷里の町史には、どうしたことか、私の実家のよろず屋の記事がある。よっぽど暇なんだね、この編集者。
そして、私の実家は、店の表にでかでかと、下着の俗語を書いて人目を引いていた、
なんて書いてあるのである。

親類縁者はみんな、聞いたことがない、と言うばかりで、町に苦情を言いに行く、知恵も根性も持ち合わせなかったようだ。
そんなゲスなことを書く町史の編集者たちがいて、嘘を書いたのである。寺島弘隆の系譜だろう。

だから私も、機会があるごとに、しつこく、永遠に残るように、書いて伝えなければならないと思うのだ。

   負けるものか。絶対に。こんなにやられて、どうするのだ。

人生は戦いである
かの『町史』は、今では希少な文献として、あちこち分散していると思うので、私は永遠に頑張るのだ。

*****
父親の姉は女子高等師範出の優秀な女性、その夫も教師、後に校長。

 (女子師範が難関だったのを実感したのは、
  小説家・宮尾登美子氏が入試に失敗した一件からである。出自も問題だったのだろうな。)

もう一人の姉は教育委員長の妻で高等女学校出。
母の血筋は東北大学教授につながる。

兄は町の進学校を出て、後に京大に進み、関東の某国立大学の助教授になった。

父親は、学歴は尋常高等小学校と自称していたが、海軍水雷学校2番だったそうな。
そして、3人乗りの特殊潜航艇の乗員だった。本にも名前が載っている。

どういうわけで、下着の俗語を看板の如くに大書しなければならないのだ。書いた人間はゲスの極み。

悪質この上ないことをする人が、この世の中にはあふれている。
それをはっきりと認識して、負けていてはいけない。


*****
正面からの攻撃にもオタオタするのに、ゲスの勘繰りや当てこすりにも反論できないとなれば、
やられっぱなしである。

反撃の方法を学ばなくてはならない。即座に対処する方法が必要である。事を荒立てないように、平常心をもって速やかに。
人生の終わりになっても、私は反撃の方法を探し続ける。

反撃の方法を知らないことは、何の落ち度もない者を、社会の弱者・敗者に追い落とす。
対等に争える人間にならなくてはならないし、そういう人間に育てなければならない。


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20200214

祖母はどういう人か。

実家には足踏み式ミシンがあった。最初は全体が真っ黒な鋳物でできたものだった。
それがあるときから、天板が木製のものに変わった。

父親が別の事業を始めて、祖母のよろず屋は先細りが見えていた。

それもあってのことだと思うが、祖母は店用の生地見本をミシンで縫い合わせて、袖なしのちゃんちゃんこを作った。

黒い鋳物のミシンは戦前からあったものだ。
そのミシンで、"祖父"が作業用の衣類や、山での作業用の、今で言うナップザックを縫っていた、と聞いたけれども、
聞いた話というのは、本当かどうか、わからないことが多い。

誰が何をしていたものか、わからないミシンだが、壊れたら新しいミシンが入ったのだ。

新しいミシンで何をしていたのか、これまた記憶にないが、
祖母が生地見本で、袖なしのちゃんちゃんこを作ったことは、覚えている。

5センチ×10センチほどの生地見本をたくさん縫い合わせて、綿入りの袖なしちゃんちゃんこができていた。
生地見本は、ウールの男物の、茶色や黒・灰色といった多数の色のものだった。

どうやって縫ったのだろうと思っていたが、ミシンの針から右側に見える縫い代幅を、印を目安に一定にすれば、
大きな一枚にできる、ということになるだろう。

もっとも、考えることはできても、実際にそのように仕上げることができるかどうか、私なら自信はない。
しかし祖母は、ピタリと縫い上げてあった。

そんな人が守るよろず屋が、店先に下着の俗語をかかげるようなことを、するわけがない。

この執拗ないやらしさ、永遠に残るように書き残すいやらしさ、私は決して許さない。私は永遠に許さない。



20220503

私が三つか四つの頃、時々遊んでいた、近所の2.3歳年上の女の子が亡くなったことがあった。
お葬式に間に合うようにと、頼まれて経帷子を縫い上げたのも、私の祖母だった。

町史の記事は、馬鹿記事である。寺島弘隆が馬鹿そのものなのと同じである。