「アカイメネス(アケメネス)朝ペルシア」
岩波講座『世界歴史1』1969年版より

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アカイメネス朝ペルシア帝国についての研究は、きわめて古い歴史をもつものといえよう。

それはペルシアの支配のあり方に肯定できないものをつよく感じながら、
なおも巨大な世界国家の存在に圧倒的な印象を受けざるを得なかった、
同時代のギリシャ人によって始められた。(p293)

(中略)

ペルシア人はインド・ヨーロッパ語族のアールヤ(インド・イラン)系に属し、
前1000年ころ、同族のメディア人たちとともに
カフカスをこえてイラン高原の北西部に移動してきたと考えられる。

前844年シャルマナサル3世の遠征記録にディヤラ川上流の地方名としてあらわれるパルスアが、
文献上最初のペルシアの名とされている。

前9世紀から前7世紀にかけてのアッシリア史料に、ザグロス中部あるいは南部の種族として言及された
パルスアシュあるいはパルスマシュも、ペルシア人に同一視されている。

おそらくかれらは高原の北西部からザクロス山脈を南下し、
前7世紀ころパールサ、現在のファールス地方に定着したものと思われる。

ヘロドトスによれば、ペルシア人のあいだには10部族があり、
そのうちパサルガダイ、マラフィオイ、マスピオイの3部族が他を支配していた。

3部族の中では、パサルガダイ族がもっとも有力であり、ペルシア王家のアカイメネス家もこれに属していた。
マラフィオイとマスピオイがエラム語の接尾辞を有しており、エラム系を示唆していることは注目にあたいする。

それは移住の過程において、ペルシア人がエラムの土着の支配者層と結びつき
非アールヤ的要素を受け入れながら、新しい民族体を形成していったことを示すものであろう。

その他のペルシア人のうち3部族は農耕民、4部族は遊牧民であった。(p295・296)