永正の錯乱

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子がなかった細川政元は、九条家から「澄之」を養子にした。
しかし、他家から養子を迎えたことを悔い、1503年(文亀3)、阿波細川の「澄元」を養子にした。

1506年(永正3)「阿波細川」「澄元」が上洛した。
そして騎乗の士5人と千余人を供にして、幕府に出頭した。       (長江正一著『三好長慶』p14)

こうして、阿波細川の家宰である三好之長(ゆきなが)が、
管領・細川政元に、軍事面で重用されるようになった。

これに対して、これまで政権を支えてきた畿内有力国人層はおもしろくない。

1507年(永正4)6月23日、人物に疑問が出される所のあった宗家・細川政元が、
公卿家からの養子「澄之」を擁する、畿内有力国人層の策謀で、殺害された。

彼らは、その翌日には阿波細川の「澄元」・三好之長を襲撃。澄元らは危うく近江に逃れた。
政元を殺害した一派は、主君として公卿・九条家からの養子「澄之」を迎え、
細川氏(宗家・京兆家)家督を継がせた。                  (長江著p17)

しかし、もう一人の野州家からの養子「高国」は、周囲と相談の上、
この時は、阿波細川の「澄元」を推すことを決めた。

この細川高国勢が「澄之」勢を攻めたため、8月1日、「澄之」は自害。(19歳)

その翌日の8月2日、之長「澄元」の後陣となって近江から帰京。
その後、阿波細川の「澄元」が、宗家・京兆家の家督を継いだ。

しかしながら、「澄元」之長は円満でなく、また三好之長の支配に、反発する勢力が出てきた。
そしてその反発勢力は、もう一人の野州家からの養子、細川「高国」の元に集まってきた。

ちょうどこの頃、前将軍・足利義尹(よしただ)が、周防山口の大内義興とともに、
周辺国にも呼びかけて上洛軍を起こしていた。京の不穏な情勢を好機と見たのである。 (長江著p19)

   *1493年(明応2)、細川政元が起こした「明応の政変」で、
    将軍足利義材(よしき)が追われ、その従弟(いとこ)足利義澄が新将軍に擁立された。
                                                  (長江著p13)

      将軍職の争い  10代:足利義材(よしき) 対 11代:足利義澄 
      「6代将軍の子で、7・8代将軍と兄弟の足利義視、の子」 対 「8代義政の異母兄の子」(いとこの関係)
                                           
   *将軍足利義材(よしき)は、逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)と改名。
    二度目の将軍在職中に義稙(よしたね)と改名。

       改名: 足利 義材(よしき)→義尹(よしただ)→義稙(よしたね)

「澄元」は大内義興と和議を結ぶための交渉に「高国」を差し向けようとしたが、
逆に「高国」は、前将軍足利義尹(よしただ)や大内義興と結び、畿内国人を味方につけた。

     これが「両細川の乱」の始めである。                    (長江著p20)

1508年(永正5)4月、「澄元」や11代将軍足利義澄は相次いで近江に逃れ、「高国」が入京した。

4月末、足利義尹(よしただ)・大内義興は堺に到着、これを出迎えた「高国」が、京兆家(宗家)の家督を継いだ。

6月、前将軍足利義尹(よしただ)は堺から京に入り、再び将軍として返り咲いた。
細川「高国」は管領となり、大内義興は管領代・山城守護となった。      (長江著p21)