n.2. 阿波の海部氏と三好氏

                                    小説:スペイン太平洋航路目次

  古い時代に、海部氏が、管領細川氏や阿波細川氏と、
  強い結びつきを持っていたことがわかる文書が三つある。

  1352年の東寺百合文書、1392年の相国寺供養記、1420年の満済准后日記の三つである。

  その1392年の相国寺供養記に、管領細川頼元に続いて小笠原・海部と出てくるのであるが、
  この小笠原氏が名を変えたのが、三好氏だ、ということになっている。 *相国寺供養記

  1467年応仁の乱が起きた時、一方の雄である管領細川勝元に味方して、
  阿波守護の細川成之(しげゆき)(1434〜1511)が上洛した。

  この時、三好之長(ゆきなが)も、父と共に阿波細川氏に従って上洛した。
  これが、三好氏の名で畿内に進出するきっかけとなった。

  細川勝元が病死した後、宗家(管領家)の家督を継いだ細川政元に子供がなく、
  「公卿」「阿波細川氏」「宗家(京兆家)の分家(野州家)」の、
  3家から3人の養子をもらったため、三者の間に跡目争いが起きた。

  さらに細川政元は、将軍の首をすげ替えたりもしたので、
  追い払われた前将軍が、大内氏にかつがれて戻ってきて、
  将軍に返り咲いたり、また追い落とされたりし、

  また管領家細川氏の家督が、1年の間に3人で争われ、入れ替り立ち代りし、
  一人の死亡後、残った二人は、子の代まで25年間争い続け、
  その、事を決したのは戦闘と武力の誇示であったから、大混乱であった。
                              *永正の錯乱
                              *両細川の乱

  三好之長(ゆきなが)の嫡男の息子(つまり孫)が、三好元長である。

  元長もまた、「将軍家」と「細川宗家」の後継者を奉じて戦い、そしてこれは成功する。
  奉じたのは、足利義維(よしつな)と細川晴元である。
           (義維は正式に将軍になったわけではないが、政略的成功の意味。
            堺公方と呼ばれる勢力をなした。)

  しかし元長の戦功をねたんだ一族の者たちや、自身が奉じた細川晴元に足をすくわれて、
  彼らにけしかけられた一向一揆と戦う内に、自害する。
                              *三好元長

  この三好元長の嫡男が、三好長慶である。

  父が亡くなった原因が、主家の細川晴元や同族たち他にあるのだから、
  内紛の火種は、最初からはっきりしていた。

  三好長慶ザビエルと会った1551年1月当時は、
  細川宗家の晴元も、晴元が奉じた将軍も、京都から逃げ出してしまっていた。

  誰が京都を治めていたかと言うと、三好長慶である。

             *三好之長(ゆきなが)→長秀→元長→長慶(ながよし)