本体的整頓と論理的整頓
NOTE
私の著作は『ものの見方の始めについて』である。その内容は、要するに、この世界をどのようにして読むか、がテーマである。そして今井の「本体的整頓と論理的整頓」という考え方は、私の方法論とよく合致する。それは私に言わせれば、「物質世界と情報世界」なのである。
当初は、多分誰もが漠然と考えるであろう、「この世界って何だろう」式の思いだったはずなのである。だが、どうしてこれを執拗に追いかけ、本まで自作してしまったのかというと、自分の考え方が、学問の主流の考え方と正面衝突し、しかも自分の考え方の方が、有益であろう、という認識があったからである。
とにかく、この本を自作する2005年末まで、私の中では精神的な混乱が続いていた。単発的な発言をいくらやっても、まったく取り上げられないか、もしくは激しい反発か、の、どちらかであって、自分の中で、心のよりどころになることというのが、さっぱりつかめなかったのである。
本を自作してみたら、その反応は、承認か無視か読む気がしない、というものであって、激しい反発、反撃というのが伝わってこなかった。というわけで、ようやく人らしき心地を取り戻した?ような気がする。
新聞社や出版社、各地の県立図書館など、寄贈という名目であちこち送ってみたが、全く反応なく、図書館で蔵書検索してみたら、そもそも検索にかかってこないところも多い。どうなってしまったのだろうか。
補足の「唯物史観の公式」の紹介の部分で、書いてあるのに書いてないとするという、ピンボケミスをやっているところで、私の精神状態がわかる感じだが、とにかく、作ってしまった、という達成感が安心を生んだように思う。
かくしていろいろ考えているうちに、歴史学方法論に関係する本が、いくつか集まった(現在9冊。林健太郎・斉藤孝・カー・浜林正夫・弓削達・増田四郎・小谷汪之・今井登志喜・福井憲彦)。
今それらを見ていて、今井登志喜の弟子に当たるような人たちも、「本体的整頓と論理的整頓」という概念について、誰も説明していないことに気がつく。
私も今回、全文現代表記ということを思いつくまで、そんなに細かくは読まないままだった。また、誰も説明していない、ということに、そんなに意味があるとは思えなかったのだが、今は、これは私だから説明がついたのだ、と、言える。
もちろん今井登志喜と私とでは、時代が全然違うので、今井登志喜が私と同じようなことを考えた、ということはあり得ない。
ただ、モノ的に関係する世界、やわらかい地面を歩けば足跡が残る、というような世界(本体的整頓)と、人が歩いているのを見て、誰それが歩いていた、と証言する世界(論理的整頓)と、二つある、という認識があったのは確かだと思う。
後に続く今井の記述を見ると、この二つの観点を、最後まで大事にし続けたのがわかる。
例えば、実例として取り上げた塩尻峠の合戦の部分で、信玄感状を遺物としている点。現代風の厳密な感覚でいくと、合戦と感状は、物的関係とは言い難い。人間が人間の感覚を通して、報告と事実の関係を吟味し、事実であると認定した結果、発生しているのだから。
しかし、主観の介入が極めて少ない、即物的な痕跡と見たから、遺物である、としたわけだろう。
また、季節や時刻や地理を、極めて重要な史料の内に含めて説明する考え方も、一貫して本体的整頓という考え方があるからこそ、こういう説明になるのだと思う。
実際の考証では、地理・気象は、ごく普通に考察に出てくる必要事項だけれども、史料である、と、論理で説明する例は、ないような気がする。(もちろん本家のドイツ史学のことは知らない)
今井は、ネット情報によると、登呂遺跡の発掘にもかかわったらしい。これは、本体的整頓と論理的整頓の両面において、日本史を整合的に理解したい、という意思のようにも思われ、やはり終始一貫が感じられるのである。
私が思うところでは、現代の思想は、歴史学だけでなく、全般的に、この本体的整頓という考え方がなくなってしまっているのだ。そこが問題だと思う。
皆が、絶対的なものはない、客観的なものはない、と言う。その話は、論理構成上、本体的整頓の世界があることを、確認させてくれない。言及がないのが、現代思想であると感じる。
マルクス系の学問が、日本語訳で物質的関係という言葉で経済問題を論じたので、混乱をおそれて、本体的整頓とした可能性もある。あるいはドイツ史学が、日本語のこの言葉を想起させるような表現だったのかもしれない。
私は高校サイエンスの感覚だったので、物質という言葉以外に使いようがなく、この言葉でも随分苦労した。そして、本体的整頓という言葉を使った今井著は、弟子にも理解されずに、放置されたみたいに見える。