私が考える物質世界
                 (北天翠翔『ものの見方の始めについて』より)

            本体的整頓と論理的整頓へ     空中写真で見る世界へ    素朴客観論

拙著『ものの見方の始めについて』p26〔サイエンス描く世界〕より

 私にとって、誰もが認める明確な自然観というのは、強力な拠り所に思えた。

長い長い宇宙的な時間や、出現して時わずかな人類地球をとりまく宇宙環境地球の形状等、
世界史というものの自然的環境がまず大事だった。

これがつまり、宇宙空間に浮かぶ地球上の、物質現象として世界をとらえることの、基本だった。

 宇宙全体の組成を極小粒子とエネルギーとして捉えなおす方法があるように、
地球という生命を含む物質圏の組成を、極小粒子とエネルギーとして捉えてみる。

それは、空間を占めて質量を持つ「ナニカ」でできた世界である。その「ナニカ」を、多くの場合「物質」と呼んでいる。(注)

 人体も根本的にはこれらでできている。

こういう世界では、人体は、膨大な数の細胞群の一集合形態であって、原子でできた分子構造物が絶えず出入りしている生命なのだ。(注)

原子核と電子の動きが時間を刻むように、地球上の歴史も、空間を占めて質量を持つ「ナニカ」の動きで捉えることができる。自然科学的には。

 この極小粒子とエネルギーでできている世界という考えには、人間の考えることが全く入り込まない

 例えば机や貨幣という考えは、人間の見方が入っている。人間から見て机や貨幣だったとしても、そのような用途を必要としないアリの認識には、そんな区別はないだろう。(注)

 空間を占めて質量を持つ「ナニカ」の世界は、人間の認識構造にも、アリの認識構造にも、全く関係なく、それ自体の性質だけで存在する世界なのだ。

このように極小粒子とエネルギーでできているこの世界には、人間の見方が入り込まない。

空間を占めて質量を持つ、物質の存在の仕方が「ある」だけの世界なのだ。


p40〔サイエンスが言う、人体を巡る物質世界

 私にとっては、個々の人間を取り巻く物質関係というのは、物質に常に取り囲まれているということだった。

 酸素窒素の混合物である空気、炭水化物たんぱく質ミネラルなどの食物、、あるいは気温気圧重力、等々の物理的要素。

一人一人の人間の体が、そういう物質の環境の中で、いかに精緻な仕組みでもって生命を維持しているか

そういうことが私にとっての物質関係だった。

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 苦労話1

 通俗マルクス主義では、経済問題を、物質問題とか物質的関係とか、そういう表現を使ったので、
物質を基本に考える、などという表現を使うと、

お金の問題や貧富の差など、
社会がかかえる政治経済的な矛盾問題への関心だと、

勘違いされた。

そうではないと説明すると、今度は、切実さや誠実・篤実を欠いた、ヒマ人間のゴミ発言と見なされた。

 苦労話2
 人間を原子として捉える、なんて表現を使ったことがある。 すると、

人間が原子のような単純な存在に見えるのか、
と、激しい反発が帰ってきた。
 
 人間は原子のような単純なものではない。
社会をそのようなものの集合として捉えようとしたって、
社会なんか絶対に理解できない。

 ここまで来て、やっと、「人間全体」を1個の原子にたとえる、そう考えたらしいとわかった。

(小谷汪之『歴史の方法について』p18には「アトム的に孤立した個人」などという表現も出てきて、その他アトミズムとか、
人文学分野の比ゆとしては、どちらかと言えば、この方が一般理解に近いらしい。私としては、絶句して立ち止まる感じ。)

 実在という言葉を使えば、哲学的用法ではない、と来る。
「もの自体」という言葉を使えば、「それはカントですな。カントの「もの自体」という考え方は、そうではなくてこうである」、と言われる。

絶対的などという言葉は(今井は使っているが)、禁句だという。絶対的なものなど、ない、と言うのだ。

(息子が大学センター試験の国語の問題で、絶対的なものはない、というのが正解である、という、
誘導的な試験問題に遭遇して、困惑していたことがある。まことにうらみがましい。)

客観的などという表現も時代遅れだという。
(マルクス主義が「客観的」という言葉を多用した(注し、それ以前の素朴客観主義に対する批判もあった、が。)

 社会の外観を確認することが第一だと私が言えば、
「社会は外観ではわからない。
そんな当たり前のことが、社会を考える上で役に立つなんて、とんでもない間違いだ。
子どもでもわかる。
社会で大事なのは、物事の本質であって、それは外側からではわからない。」

「人間が物質だなんて、なんて恐ろしい考え方をするんだ。人間はモノではない。人間にとって大事なのは精神だ。
心が大事なのであって、人間を物質化するようなことは、してはいけない。あなたの発想は、最初から道を間違っている。」

「社会を自然科学する。とんでもない。そんな話はとっくの昔に葬り去られた問題だ。社会科学というものは価値意識が関係する。
自然科学は価値意識が関係しない。それは根本的な区分であって、社会を自然科学で考えるというようなことはあり得ない。」


 とにかく他にもいろいろとあらゆることで罵倒が激しかったので、そうではない、ということを表現するのに、非常に苦労した。
これでは、話を進める前に沈没する、という感じだった。

 罵倒を思い出し、防衛を考えて、気をつけて表現したつもりなのだが、罵倒した人達が読んだかどうか、確認のしようもない。

 表現が科学的かどうかはわからないが、社会科学系の人達が、誤解しないようにすることが大事だった。

 理系の人達の間で話をすれば、そんなに違和感はないと思われるのだが、
これが社会科学に属すると自認する文章の中に出てきているのが、目新しいことなのである。