秦郁彦『南京事件』中公新書
第2章 東京裁判 (極東国際軍事裁判)
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東京裁判
昭和21年(1946年)5月3日から昭和23年(1948年)11月12日まで
審判者は東洋3国を含む戦勝連合国11カ国。
東条英機元首相以下25人のA級戦犯被告全員に有罪判決(内7人は死刑)。
証人419人、779通の供述書を含む4336通、約900万語、48412ページにおよぶ書証
対象時期:昭和3年1月1日から昭和20年まで
争点:検察側 共同謀議によって、 侵略戦争を計画し、準備し、開始し、実行した。
弁護側 共同謀議は存在せず、自衛戦争であった。
マスコミ:
戦前は「勝った勝った」の一方的な大本営発表。
↓
戦後は張作霖爆殺・南京大虐殺などの、真相暴露路線。
多少の事情を知る関係者の多くは、戦犯容疑がわが身にふりかかるのを恐れ、沈黙。
「天皇制の下で、軍閥を核として財閥・官僚・言論人・右翼が協力して侵略戦争を遂行した」
という構図は、「被害者」である国民に一種の免罪符を与えた。
知的マゾヒズム(被虐趣味)の潮流が支配する。
南京事件
免責と引きかえに提供された田中隆吉の内部告発。
元陸軍省兵務局長田中隆吉少将: 陸軍有数の謀略家。第一次上海事変で火付け役。中国経済擾乱を手がけた。
証拠:(p33)
事件当時南京にいた国際安全区委員会の外国人たち。
出頭証言: ウィルソン・ベーツ・マギー・スマイス、
口供書のみ提出:フィッチ・マッカラム牧師・ダーディン記者(検察側不提出)
委員会が日本の官憲に提出した抗議文書「南京安全区?案」
スマイス博士編集の「南京地区における戦争被害」
崇善堂、紅卍会など慈善団体の死体埋葬記録
米独の外交出先機関から本国にあてた関連の公電など
中国人被害者自身の証言:尚徳義(雑貨商)・伍長徳(警察官)・陳福宝(少年)・許伝音(国際安全区委員会勤務)の五人
反撃: 検察に対する反撃は、ブルックス弁護人の「証言はほとんどが伝聞に属す」と印象づけた質問のみ。(p35)
松井石根(いわね)大将の責任論をめぐる法廷技術の拙劣さ。
南京大虐殺について、部分的容認派と全面否認派に分裂。
松井が動揺のあげく、部分的容認へまわった。
(焼却したはずの松井石根大将の日記は、実は保管されていて、
全面否定した小川関治郎法務官(第十軍法務部長)が、
不軍紀行為の数々を記録した「第十軍法務部陣中日誌」を所持、
これらははるか後年になって出てくる。)
昭和23年11月4日と12日の判決
「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、
20万以上であった」と結論。松井大将に絞首刑を宣告。
南京の国防部軍事法廷では以下の4人が死刑。
BC級被告として、谷寿夫(事件当時の第6師団長)
・田中軍吉大尉(第6師団中隊長)
・向井敏明、野田毅両少尉(いずれも第16師団歩兵第9連隊)(東京日々新聞に「百人斬り」と書かれて標的に)
その後
1960年代末まで、マスコミも学会も東京裁判のデータと結論を無条件に受け入れていた。
昭和47年(1972年)の日中国交回復が分岐点。
昭和47年(1972年)本多勝一『中国の旅』が南京事件を改めて掘り起こす。
昭和47年(1972年)洞富雄『南京事件』
昭和48年(1973年)鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』(百人斬り伝説の考証)
昭和57年(1982年)洞富雄『決定版・南京大虐殺』
昭和57年(1982年)教科書騒動ーーー新聞の誤報。文部省が「侵略」を「進出」と書き直させたという誤報。国際問題化。
昭和59年(1984年)下級兵士を主とする内部告発派が登場。中島師団長日記などの新資料が発掘される。