秦著『南京事件』中公新書9

                                                           秦著『南京事件』目次へ戻る 


第9章  南京事件論争史(上)


〔アイリス・チャンとジョン・ラーベ〕(p247)

  2005年、南京虐殺記念館に、アイリス・チャンとジョン・ラーベの銅像


  1997年、アイリス・チャン著『レイプ・オブ・南京』ジョン・ラーベ『南京の真実』が刊行される。南京論争の国際化。

      1997年は南京事件60周年。米ニュージャージー州プリンストン大学のシンポジウムに、秦郁彦・笠原十九司が参加。
      この時がアイリス・チャンの初舞台だった。

    *アイリス・チャン(1968〜2005)  
    *アイリス・チャン著 『レイプ・オブ・南京』  日本兵による、過激・グロテスクな蛮行記事。50万部のベストセラー。

        反日団体「南京大虐殺の犠牲者を記憶する同盟」(略称アライアンス・中国系アメリカ人の組織)が、
        ジョン・ラーベ(南京国際安全区委員長、1882〜1950)の日記や文書を発掘して、アイリス・チャンに提供。


〔ティンパーリーと30万人説の起源〕(p253)

  1938年7月、ロンドンと漢口でほぼ同時に刊行された、ティンパーリーの『戦争とは何かーー中国における日本軍の暴虐』

    ティンパーリーの行動:38年1月に上海から香港経由で漢口へ飛び、(中国国民党)中央宣伝部国際宣伝部と話し合い、
                  資金援助を受けて英文版と中国語版を刊行
                       (中央宣伝部国際宣伝処長、曾虚白の自伝〔台北・1988〕などを利用の、
                                 北村稔『〈南京事件〉の探求』(文春新書・2001)・東中野ら追加調査による)
                 
            中国『近代来華外国人名辞典』(1981)ティンパーリーについて:
                     「1937年盧溝橋事件後、国民政府により欧米へ派遣され宣伝工作に従事、
                      つづいて国民党中央中央宣伝部顧問」

            『ガーディアン』紙(イギリスの新聞)の死亡記事:  
                  (ティンパーリーの)在職期間は1928年から38年。39年から国民党中央宣伝部のアドバイザー。)

  ティンパーリーは宣伝工作員か?
    問題点1、出所と根拠があやふやなまま、事件の態様や規模の原型を作り上げ、海外に伝播させた。
    問題点2、南京国際安全区委員会が犠牲者数を4万人前後としていたのに、あえて30万という数字を打ち出したこと。 
  
  「30万人」説の考察(p255)
    ティンパーリー『戦争とは何か』英文版冒頭:
      「華中の戦闘だけ中国軍の死傷者は少なくとも30万人を数え、ほぼ同数の民間人の死傷者が発生した」

        軍人死傷者30万人:「我軍退出南京告国民書」(蒋介石・漢口)南京陥落直後1937年12月17日、
             「抗日戦争開始いらいの全軍の死傷者は30万人に達した」からの採用か(北村稔説)

        東京裁判提出の各年別死傷者統計:国民政府の何応欽軍政部長提出
             「1937年戦死者12万4130人、負傷者24万3232人」

        「ほぼ同数の民間人」の典拠:なし。
          ヒント:
             暗号電206号(1938年1月19日、外務省・広田弘毅名で、ワシントンなど、欧米各地の出先大使館あて)
        
             16日にティンパーリーが本社あてに打とうとした電報を、上海の日本検閲官が差し押さえ、
             そのティンパーリー電報を付けて、英総領事館と係争になっている事を伝えた電報。

             上海日本大使館は以前からティンパーリーを要注意人物と見なしていて、出先大使館に注意を促がしていた

               差し押さえたティンパーリー電:「私が調査した」
               「日本軍によるフン族の蛮行を思わせる残虐行為」
               「30万を下らない中国人市民が虐殺された

                   *上記ティンパーリー電を、アイリス・チャンが米国立公文書館で発見、著書に悪用(原著103ページ)。
                     主語を広田に替え、日本の外相が30万人の虐殺を確認していたかのように変更。

  「4万2千人」説
    ジョン・ベーツの系列。根拠は紅卍会の死体埋葬記録。
    E・スノウ、『抗敵報』『新中華報』など中国共産党系の印刷物や米中合作映画。

  東京裁判の段階で、南京だけで「軍民あわせて30万」にほぼ統一される。     (p258、本のママ)

           ただし、終戦までの約8年、中国国民政府(および延安政権〔共産党〕)が、
           公式に南京事件の規模、とりわけ虐殺数に言及した事例は、ほとんど見かけない。


〔東京裁判の呪縛〕(p259)

   根拠の不自然さ:p261
          埋葬者数:紅卍会・崇善堂の資料
                    作業員数に対する作業量の不自然(崇善堂)、
                    軍戦死者・民間人病死者・砲爆撃巻き添え死者との区別が不可能、
                    崇善堂が紅卍会の下請けなら、数字の重複の可能性も。

          内訳の合計と総計が一致しない。
          闇夜に5万7418人の虐殺という証言は不自然。
          軍人の戦死者も含めた犠牲者を虐殺の被害者とみなした例。


〔1960年代までは低調〕(p263)

   「抗日戦争の研究に関する中国側資料」(李玉・北京大学教授・2000年)
    @第1期(1949〜1966) 文献僅少、単行書13冊
    A第2期(1966〜1979) 文化大革命期、他分野ふくめ、学術研究は不毛
    B第3期(1980年以降) 84年から93年までの10年間に抗日戦争に関する著作は546冊

   ただし1・2期の頃、南京事件は、拙劣な防衛作戦、指揮官の逃亡、という国民政府批判の立場から書かれている。

   日本の歴史学会はマルクス主義が優勢だったため、中国共産党よりの姿勢が顕著。
       1953年『太平洋戦争史』シリーズ・歴史学研究会編。
                   中共党系の文献に依存。中共軍の戦果を激しく誇張。南京事件記載なし。
       1955年『昭和史』岩波新書、南京占領日を誤記、記述は3行。

       1961年『日中戦争史』秦郁彦、南京事件に言及
       1968年『太平洋戦争』家永三郎、岩波書店。

   日中とも、概して南京事件を本格的に検討する気運なし。


〔本多勝一と『中国の旅』(第1次論争)〕(p267)
       
   1971年11月、南京事件に関する本多勝一ルポが朝日新聞に掲載される。
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   思い切った告発スタイルが、中国政府側の言い分を検証抜きで取り次いだだけだと反発を招く。
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   批判派との論争激化。

     月刊雑誌『諸君!』掲載のイザヤ・ベンダサン(=山本七平)連載シリーズ。
        同             鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』(百人斬り事件捏造論)

     洞富雄『日中戦争史資料』1973年。
        「南京事件1」東京裁判関係資料。 「南京事件2」ティンパーリー、スマイス、ダーディン、徐淑希などの邦訳資料。

     1984年「南京事件調査研究会』(洞・藤原彰・本多勝一・吉田裕・姫川光義・笠原十九司・江口圭一ら)


〔三派の全員集合(第二次論争)〕(p271)

 1983・4年、論争再発。誘因は1982年夏の誤報、文部省「侵略」→「進出」書き換え要求。中国・韓国からの強硬な抗議。
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 中国研究者が次々に南京事件関連の発表
 1983年、『侵華日軍南京大屠殺史料専輯』第4輯。政治協商会議南京市委員会文史資料研究会
                     (邦訳84年『証言・南京大虐殺』(青木書店))
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 1985年、南京虐殺記念館開館

 1984年『南京虐殺の虚構』田中正明(元松井大将秘書)(1911〜2006)---後に松井日記の多くの改ざんを指摘される
 1984年『諸君!』10月号、参入。
 1985年『諸君!』4月号、「虐殺派」「中間派」「まぼろし派」3派集合座談会。


〔偕行社と「南京戦史」〕(p275)

 偕行社が南京事件論争に参入
                *偕行社:陸軍士官学校卒業生の親睦団体・機関紙は月刊『偕行』

 『偕行』83年10月・11月号で情報提供を呼びかけ。→シロだけでなく、灰色・クロのデータも集まる。
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 マスコミが次々にクロの資料や証言を掘り起こす
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 84年末、雑誌『歴史と人物』中央公論社が「南京攻略戦・中島第十六師団長日記」を掲載。
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 角良晴(すみよしはる)少佐(松井司令官の専属副官だった)がマックロを主張した投書を送ってきた。
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 『偕行』編集部 方針転換。
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 加登川幸太郎元中佐、全体のトーンから虐殺の存在を確認、謝罪。
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 会の内部から強烈な反発。
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 1989年11月。偕行社編『南京戦史』として刊行。
           第1冊は通史。
           第二冊は資料集T(松井日記、中島日記など、18篇の参戦者日記、作戦命令、戦闘詳報、中国・米英側記録など)
           1993年に資料集Uを続刊。

   *防衛庁防衛研究所戦史部の資料を提供した原剛、兵士たちの手記や日記類を精力的に発掘した板倉由明の貢献。