秦郁彦『南京事件ー虐殺の構造』中公新書1
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第1章ジャーナリストの見聞
南京大虐殺
1937年12月18日 第一報 ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディンによる記事
参考・類似事件:1937年4月26日 ゲルニカ
スペイン・バスク地方 ドイツ空軍による無差別爆撃、1650人死亡。
参考・同時事件:1937年12月12日 パネー号事件
日本海軍爆撃機による誤爆事件。日本政府の陳謝と善後処置で沈静化。
13日の南京陥落を目撃した外国人ジャーナリストは五人。
ニューヨークタイムズのダーディン、シカゴデイリーニュースのスチール、
ロイター通信のスミス、AP通信のマクダニエル、
パラマウント映画ニュースのメンケン
内4人が12月15日に南京を出、マクダニエルだけが16日に出た。
ダーディンは、米砲艦オアフ号上から第一報を打電。
南京で日本軍と共に正月を迎えた外国人は22人。
主力はドイツ人とアメリカ人。
中国人難民を世話しようと危険覚悟で残った篤志家たち。
主要メンバー:
国際安全区委員長 ラーベ(シーメンス洋行代表)
同幹事・YMCA書記長 フィッチ
国際赤十字委員長 マギー牧師
金陵大学教授 スマイス博士
ベーツ博士
医師 ウィルソン
1938年3月16日 サウス・チャイナ・モーニング・ポストでのフィッチの証言
フィッチ:蘇州生まれの牧師の息子
中国で30年近くYMCAの宗教・教育活動に捧げた米人
1938年7月 ティンパーリー『戦争とは何かー中国における日本軍の暴虐』
ロンドン版と中国版が出る。
知られているだけで、ロンドン・ニューヨーク・パリ・カルカッタ・漢口版がある。
広く読まれた。
採録素材:
日記・手記 名前は伏せてあるが、フィッチ、ベーツなど、問題の時期を南京で過ごした、
外国人残留者たちの日記・手記
南京国際安全委員会から南京日本当局に出された抗議130件
英米独大使館に陳情のために送った、日本軍暴行事例34件の公信記録
ティンパーリー自身は南京を見ていない。(秦著・p12、4行目)
*ティンパーリー: オーストラリア人
1928年 英大新聞の中国特派員、30歳。(秦著p10)
上海で日中戦争にぶつかる。
1938年 上海を離れる。
1939年 蒋介石政権の情報部勤務。
1943年 アンラ(連合国救済復興機関)、ユネスコ
1951年までアジア各地で働いた。
上海戦の末期、フランス人神父が上海で国際安全区を開設したとき、
ティンパーリーに頼まれて、日本軍の公認に尽力した二人の日本人がいた。(p11)
松本重治・同盟通信上海支局長
日高信六郎・外務省上海駐在参事官
慶祝ムードの日本新聞。情報、国民に届かず。
南京攻略戦に従軍した日本人ジャーナリストは、最大規模の同盟通信社だけで33人。
カメラマンや地方新聞の特派員まで加えると、各社あわせて100人を超えた。
ほかに、山本実彦(改造社社長)、西条八十(詩人)、杉山平助、中村正常、
北村小松、大宅壮一、石川達三のような著名人がいた。
しかし日本軍の蛮行は、当時の日本国民には届かなかった。
検閲
従軍記者のレポートは、出先陸軍報道部の検閲を受け、本社のデスクでチェックされ、
紙面に載っても、内務省図書課(憲兵が常駐)の検閲にひっかかれば、報道禁止、責任者処分。
検閲行政の総本山は内務省。
「安寧秩序を乱し、または風俗を害する」出版物の発行や販売を差し止める権限を持つ。
日中戦争突入後は、外務省、陸海軍、税関と連携して、水も漏らさぬ警戒網がしかれた。
海外からの輸入刊行物で輸入禁止処分を受けたもの。
「我軍が無辜の民に残虐なる行為を為せる如く曲説するもの」
「我軍が国際法違反の戦闘手段を行使セルせる如く曲説するもの」
昭和13年1月、25件。2月109件。3月79件。(「出版警察法」内務省警保局図書課)(p22)
南京事件関連の報道は輸入禁止。
海外特派員による、欧米新聞の報道を転載紹介する記事もカットされた。
出征兵士たちの家郷への通信は、所属部隊と野戦郵便局の厳重なチェック網にひっかかった。
帰還兵たちの略奪品の持ち帰りを防ぐために、憲兵が乗船場で荷物検査。