「変体がな」の説明について
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現在、変体がな使用の変遷をたどった文献を手にすることができない。
私は、この自分のホームページで、独自の用語を使って説明を試みているので、その用語を説明しておきたい。

A.現代ひらがなの「元になっている漢字」と、元の字は同じだが、字形が違う文字。

  例えば現代ひらがなの「ま」は、元の字は「末」である。

  二本の横線を引く「ま」は「現代ひらがな」。
  変体がなでは、
  1、始めの1本を上に湾曲させてから下に曲げ、二本目の横線を引かない「ま」。
                  (異体字の変体がな「ま」と呼んでいる) 
                      
  2、元の漢字の形が推測できる程度にくずされた行草書の漢字が、「表音文字」として使われている場合の「末」。
            (「草漢字風の変体がな」と呼んでいる。ただし、「末」は本ホームページの手紙実例の中には、ない)
          
       
B.現代ひらがなとは、「元になっている漢字」が違う字。
   例えば、「満」の字が「ま」の音を表す「表音文字」として使われている場合。
     1、極端な崩し字で、「満」の漢字とは「別文字」に見える文字。(「簡略変体がな」と呼んでいる)
     2、行草書の漢字が、「表音文字」として使われている場合の「満」。(「草漢字風の変体がな」と呼んでいる)


吉田豊『古文書をはじめる前の準備講座』柏書房を見ると、明治20年代の小学校教科書が紹介されている。
それを見ると、江戸時代にもよく使われていた「簡略な字体の表音文字」が、いろいろ出てくる。
この頃はまだ、江戸時代からの文字の継続性を保ち、子ども達にも継承しようとしていた、のが伺える。

しかし、明治33年(1900年)に、小学校令で、「現代ひらがな」しか教えないことになった。
子供雑誌は、その数年前から「現代ひらがな」表記になっていた。

そうした状況の中で、人々の手書き文字は、どのような変遷をたどったか。

昭和10年に収集した手紙実例を見ると、大正・昭和に実際に使われた「簡略変体がな」は、
明治20年代教科書に載っていた文字群から、さらに絞り込まれている。

1894年以降に生まれた、南京事件当時33歳から43歳の人たちの間では、
使われた簡略変体がなは、「か(可)」と「に(尓)」だけである。

南京事件当時40代後半だった人々の間で使われた「簡略変体がな」は、
「に(尓)」「か(可)」「た(多)」「す(春)」「は(者)」、以上5文字の頻度が高い。

これら、明治20年代の小学校教科書に出てきた「簡略変体がな」の文字は、

上客や得意先、目上の人物、年長者、などに宛てた、依頼文、断り状、招待状で、

(たとえば、岸田劉生、富本憲吉夫人、九条武子、池田蕉園(候文)、原阿佐緒、藤蔭静樹など。6人の内、5人が女性。
あるいは相手が年下でも、吉川英治のような見舞い状など)、

かなり目的が絞られた日用文の中で、現代ひらがなと混ぜながら、散りばめるように使われている。

これらは「簡略」文字であって、しかも、
南京事件の昭和12年には、全員が40代後半以上であって、一般兵の年齢ではない。


もっと年長者には、有島武郎、竹本土佐太夫などがいるが、一般兵からは、さらに年長になる。まだ検証中です)

南京事件の昭和12年時に43歳以下の人たちは、現代ひらがな世代である。
その人達の内、一般兵が、自分用の日記に、
「か(可)」と「に(尓)」以外の「変体がな」を使うかどうか、という点が、そもそも疑問である。

ましてや、書くのに時間がかかる「草漢字風の変体がな」を、どうして戦場でわざわざ書くだろうか。
しかも多用である。「井家又一日記」は、変体がな使用の面だけからでも、非常におかしいのである。


            井家又一日記の写真版をUPすれば、通じるだろうと思ったことが、通じなかった。

            「字がきれいでしょう。丁寧でしょう。書きなれた人の字でしょう」
            「こんな字で長い文を、戦場で書くなんてことは、ないでしょう」

            と、私は言ってるつもりだったのに、

            それが、南京事件についての回答担当の、ある人物には通じなかったのだ。

            思うに、回答担当氏の頭の中は、

            「気の毒な無学な人が書いた、読めない文」、という、
            大虐殺派の以前からの触れ込みで一杯で、

            文字を「見る」ことなど、考えてもみなかったのではないか、と思う。

            掲示板で示唆していただいた「いる」の使い方の間違いも、「捕獲」も、
            月の描写も、

            複数の人物から、そのような細かいことは問題ではない、
            文章全体が言わんとしていることが問題なのだ、

            という回答をいただいた。
           
            私にすれば、史料批判そのものを妨害する考え方に見えるのに、
            それなりに共感を呼ぶ考え方とも思え、
            今後のことを考えて、気にしている。
             
            南京事件。

           権力を持つ者が、その権力を維持拡大するために情報操作をする、
           というようなことは、ありそうな事に思える。
           
           しかし、戦後もしばらくしてから、新聞社や総合誌・雑誌社、出版社、政党、労働団体を通じて、
           日本人はこんなに悪かった、という一大運動が発生し、
           それが政府を動かし、教科書を書き換えた、

           というような成り行きは、かつてなかったことのような気がする。

           それを見聞きしている人は、膨大な数になるのに、誰もその奇妙さに気がつかないのだ。
           真偽は政治上の「運動」の問題だろうか。

           それぞれの人の、単純かつ率直な「判断力」の問題であるはずなのに、
           それなのに、大運動、なんてことが発生したのだ。