井家(いのいえ)又一日記
               第9師団 第6旅団 第7連隊 第2中隊 上等兵
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                  *2013年12月5日追加 偕行社『南京戦史資料集』確認
                                    解読責任者の記載なし、
                                    日記現物に関する記事なし(ただし12月13日のページの写真版掲載)、
                                    井家又一に関する他の情報もなし、
                                    p478に〔−−−はコピー不明〕という文あり、解読対象の原本はコピーか?

拾弐月拾参日(12月13日)
 午前四時行動を起こして城壁に迫る。星夜ながらおぼろに城を見る事が出来る。
昨日あれだけの弾が来たのに何たる静かな事、
遠く敗残兵でも打ったのか歩哨演習の様、ポンポンと銃声を聞くのみ、
噫さては昨日の砲撃によって退却したのであろうか。
我々は城壁占領の拠点を作り壕を掘り陣地を作る、空は晴れて左手の方の東天も明けたので銃声は全くなし。
その儘いると敗残兵が五・六名居るので呼ぶと走り来る。
全く己の敗戦を知ってか銃を捨て、丸腰のシナ人である。(略)

拾弐月拾四日(12月14日)
 南京占領の第一公園近くの儒教の寺院にて一夜を過ごす。
昨夜二時過ぎに床に入った為とてもねむかった。
然し軍隊の事朝七時起床だ、一寸体の具合の悪さを考える。
あの上海戦から南京入城までの追撃戦の疲れか全く頭が痛い。
午前八時半整列して昨夜の地点を今一度残敵掃除に行く。然し自分は行きたくなかった。
昼の南京市街を見度又出る。昨夜の地点は国際避難地区を米国人が経営しているのである。
中立地帯として日本に願いに出ているが日本人は此は認めないのである。
南京の避難民はこの地区に外人の建物の大建築にあふれて居る。
朝日新聞記者の報にて現場にかけつける。
約六〇〇名の敗残兵が外人の建物にあふれているのである。
南京落城の為逃場を失ったのである。此の処置を日本大使館に委任す。
午後四時迄残敵掃蕩終わり帰る。市街にある自動車を徴発して日本兵が市内を乗り廻している。
南京の町は日本軍の完全な者になってしまった。 (略)

拾弐月拾五日(12月15日
 午前八時整列して宿営地を変更の為中山路を行く。
日本領事館の横を通って外国人の居住地たる国際避難地区の一帯の残敵掃蕩である。
先日の風邪で腹工合いが悪くて歩くのに困る。
道路では早くも店を張っている、食料品がおもであり、散髪を大道でやっているのやら、
立って喰っているの、家屋やら大道には人の鈴なりであり、四拾余名の敗残兵を突殺してしまう。
 外国家屋避難民家屋には日の丸の旗をこしらえて戸毎にかかげられている。
道路とか広場とか掩蓋壕と立て札を立てられている土嚢を作り銃眼を作りて市街戦に備えていたかが分かる。
敗残兵の脱ぎ捨て衣服が至る所に捨てられている。
外人の家屋に九人の敗残兵が入っていて避難民九名居住宅と堂々と掲げてあるのも笑止の至りである。
警察隊が黒服いかめしく警備している。日本軍布告文を辻々要所に巡警共がはり歩いているのを見る。(略)

拾弐月拾六日(12月16日
            (秦郁彦『南京事件・増補版』p131掲載・写真版「井家又一日記」に収められている部分)

 拾弐月も中を過ぎ去ってしまった。金沢招集を受けて満三ヶ月になってしまった。
只無の世界の様である。午前拾時から残敵掃蕩に出かける。
高射砲一門を捕獲す。午後又で出ける。若い奴を三百三十五名を捕らえて来る。
避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。
全く此の中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。
手にすがる、体にすがる全く困った。
(略)
 揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺に行った。
 この寒月拾四日皎々と光る中に永久の旅に出ずる者そ何かの縁なのであろう。
皇軍宣布の犠牲となりて行くのだ。日本軍司令部で二度と腰の立て得ない様にする為に若人は皆殺すのである。 (略)

拾弐月弐拾壱日(12月21日)
 うらの竹藪には鳥が集まりて朝の戦争でもやっているのか盛んに集散をやって何事かわめきあっているのを見る。
 その向は丘陵地帯を見、枯れた数本の雑木林を見る、
此の地附近は外人の居住地帯の事とて外国旗がひるがえるを見る、独・英・米・芬を見る。
我らが此の避難地区は外人の家屋に見る中立地帯を勝手にこしらえていたのが、
我々が此の付近の家屋に入りて住むにあたりて、外人の旗も生彩をはなつの消えるを見る。
若人は此の付近に居るのを数千・数万の命を取ってしまったのも此の避難地区にいた奴だ。 (略)

拾弐月弐拾弐日 (12月22日)
(略)
 夕闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。
見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神明にひかえている。
後に死が近くのも知らず我々の行動を眺めていた。
百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林時付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。
日はすでに西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も転々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。
家屋から五人連れをつれてきて突くのである。
うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落付を失っているを見る。
戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。
針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。
中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。
突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、
中には逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。
いくら呼べど降りてこぬ 為ガソリンで家屋を焼く。
火達磨となって二・三人が飛んで出て来たのを突殺す。
 暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、逃げ行く奴を突く、
銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。
終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。
後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の子は飛散しているのである。
帰る道振返れば赤く焼けつつある。  
向こうの竹藪の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。
そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。

『南京戦史資料集1』P368〜373

***某サイトから引用させていただいたもの、そのままである。
  


2013年12月5日追加
  『南京戦史資料集』平成元年(1989年)版では、p471からp481にかけて、井家又一日記が掲載されている。

  秦『南京事件』p131の手書き日記を、地元有識者に見ていただく間に、難解な文字を見て、
  上等兵となっていても、実際は、相当上級の兵隊でしょう、という声を聞いた。

  しかし、現場で手をかけたという記事があるので、その見立ても困難ではないかと思う。