現物写真版 「井家(いのいえ)又一日記」
秦郁彦『南京事件ー「虐殺」の構造・増補版』 2007年中公新書 (p131掲載)
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比較「1894年以降に生まれた人の手書き文字」
論文『南京事件元兵士日記の、偽作の証明に向けての一考察』(28枚)
( あまり写真がよくありません。できれば書籍でご確認を)
以下は解読文(赤い文字は、当時の日本語や日本語表記として不自然な部分。
青い文字は 現代ひらがなとは違う字体の文字。
(現代ひらがなに統一されたのは明治33(1900)年である。
それ以外の文字は「変体がな」と呼ばれ、昭和12(1937)年時点では、一般用法ではなかった)
下段の括弧内は、現代ひらがなの元になった漢字とは「違う文字」、
また、戦場の一般兵の個人用日記としては不自然な、画数の多い数字(大字)も青字。
◇拾貳月拾六日
拾貳月も中を過ぎ去ってしまった。
(志満っ多)
金沢召集を受けて満三ケ月に成って
しまった。只無の世界の様である。
(志満っ多)
午前拾時から残敵掃蕩に出ける。 (他の「出」「か」「け」の文字と比較すると、「か」がない)
(尓)
高射砲一門を「捕獲」す。午後又出ける。 (前頁のとおり、当時の兵士は「鹵獲(ろかく)」という言葉しか使っていない)
若い奴を三百三十五名を捕へて来る。
避難民の中から敗残兵らしき奴を
皆連れ来るのである。全く此の中には
(久) (尓)
家族も居るであろうに。全く此を連れ
(尓) (久)
出すのに只々泣くのが困る。手にすがる
(尓) (久) (尓・可)
体にすがる全く困った。新聞記者が
(尓) (久) (多) (可)
此を記事にせん として自動車から
(丹) (志)
下りて来るのに日本の大人と想って
(尓)
から十重二重にまき来る支那人の為、
(尓)
流石の新聞記者も つひに 逃げ去る。
(飛・尓)
はしる自動車にすがり 引づられて行く。
(尓)(可・里) (久)
本日新聞記者に自分は支那売店に
(尓) (尓)
立って「いる」時、一葉を取って行く。 (前頁のとおり、この「いる」の使い方は、戦前ではありえない。)
(久) *旧かな遣い「ゐる」について
巡察に行くと夕方「拾四日の月」が空 (前頁のとおり、14日の月が、夕方に空高いというようなことはない)
(尓) (久) (可)
高く渡って「いる」。外人家屋の中を歩
(久)
きな が ら しみじみと眺めらされる
(奈)(可)(羅?) (志)
のである。
「井家又一日記」その他の部分
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「南京事件とその後の流れ」は、以下のページにレジュメとして掲載しています。
この10章のレジュメ部分に、秦郁彦氏が、この井家又一日記を入手した時期が、
全体の流れの中のどの時点か、ということも載っています。
秦郁彦著より「南京事件の経過」
私が、偕行社『南京戦史資料集』掲載の、残る元兵士日記17篇の信頼性をも疑っている理由をも、
書いてあります。
何と言っても、日記類の「現物」を手にして見ている人々、の動きが、問題ではないでしょうか。
河村たかし名古屋市長あてメール