今谷明『戦国三好一族』1985年の気になる箇所NO.2

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新人物往来社版p27より

*****引用文
三好氏は鎌倉時代の阿波守護家、小笠原氏の分流であるという。

「という」、というのは、南北朝から応仁頃にかけての三好氏に関する確実な文献も見当たらず、

いずれも後世に作られた系図類など、伝承の域を出ないからである。

三好長慶の曽祖父にあたる三好之長は、一族中畿内で活躍する最初の人物だが、

彼は長禄2年(1456年)に出生していることが確実である。

ところが、
*****

云々と、以下、三好氏が小笠原氏の分流であるとの話は、相当疑わしいことを述べる。

この本のその他の記述から、この本が出版される5年前、1980年の、
小川著『足利一門守護発展史の研究』に、

南北朝時代、1352年の国宝文書に海部氏が出てくることは、
全くご存知でないことがわかる。


ここで問題にしている、海部氏関連で気になる箇所NO.2は、p56の記述だ。
永正17年(1520年)5月、

「最も之長にとって無念だったのは、阿波水軍の棟梁、海部氏が殆ど戦わず戦場を去ったことであろう。」

このあたりの文を書くのに参考にした文献は、p55に
「鷲尾隆康の日記によれば」とあるのと、
「五条為学の記録」
その他、戦闘全体に関するもろもろの文献があるようなのだが、

『細川両家記』については、そんなことは一言も書いてないのは、確認した。
とにかく、できるだけの文献を当たってみたい。

この問題の文章について、
今谷先生が、わざわざ挿入したものではなく、典拠がある、ということが証明されないかぎり

何とも奇怪な文章だということになるだろう。

なぜなら、三好之長と海部氏が、どんな関係だったか、この時代の海部氏がどんな存在だったかについて、
この問題の文が来るまで、今谷先生は、全く触れておられないからである。何がどう最も無念だったのか、その説明が全然ない。

海部出身者としては、あっけにとられるばかりで、全く納得できない。

鷲尾隆康の日記とは『ニ水記』のことだろうか。歴史状況の説明は、またその内に、やり直すことにする。