徳島県海陽町のこれまでの歴史記述の問題点

                                       
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徳島県海陽町の歴史については、必要以上に削除されたり、あるいは否定的評価が広がるなど、問題が多い。

                          *歴史から消される海部 中世海部氏関係の文献についての年表

発掘土器からみて、3世紀後半には、海陽町はすでに関西・高知ルートの中継地点だった、
  という平成17年の『海部公民館報』の報告は、

  一般公開情報としては見ることが困難で、どこへ行ってしまったのかわからない。『海部公民館報』

全国各地にある屯倉(みやけ)を担った者たちという、古代海部の発祥が顧みられない。古代海部

○『土佐日記』では、紀貫之は、この航海は安全と見越して、警備もなく出発したようなのに、
  阿波に入る直前に「海賊」の言葉でおどされて、阿波海岸をびくびくしながら通過する。

  しかし、最初から最後まで、「海賊」は、全く姿を見せない。

  ところがこれを、「当時の阿波海岸では海賊が出没していた証拠である」、
  と言わんばかりに書く歴史の本が、あちこちにある。  例:『高知県の歴史』 『日本交通史』p119

  影も形もないのに、噂が書かれているから「海賊が出没していた」とするのは正しい表現ではない。

  『土佐日記』成立は935年である。しかし地元神社は延喜式式内社で、
   927年の延喜式完成のころには、
   この神社はすでに郡内第一の由緒と社格をもって鎮座
していた。(『海部町史』)
                           (『土佐日記』成立以前に京都に知られていた)
         (現在は大里八幡神社と名前を変えていて、秋祭りは「県内では有名」である。    〔大里八幡神社秋祭り〕


○『足利一門守護発展史の研究』小川信著・吉川弘文館・昭和55年、p92
   国宝東寺百合文書 1352年2月25日、細川顕氏が山城国久世庄の乱暴人を退けるべき旨の奉書を下した、とあるが、
   ここでも、東寺百合文書の原文では  海部・広田 の順序なのに、

   この本『足利一門守護発展史の研究』の記事では、  広田・海部 と、    順序を格下げしている。


○『徳島県の歴史』山川出版社・2007年p96
   1392年『相国寺供養記』の管領細川頼元の随兵の順序が、
   「相国寺供養記」の原文では       小笠原・海部・由木・柿原 なのに、

   この本『徳島県の歴史』の記事では、 小笠原・柿原・海部と、   順序を格下げしている。


  長宗我部氏を主人公にした司馬遼太郎氏の『夏草の賦』文春文庫では、
  「阿波海岸の小城主たちは海賊働きをする」p205と書かれ、


○今谷明先生までもが『戦国三好一族』では、この地の住民は「掠奪(りゃくだつ)を生業としていた」と書く。  
    (注:今谷明 『戦国三好一族』気になる文・「掠奪を生業とする住民」
         (*今谷明『戦国三好一族』気になる文NO.2
                 「最も之長にとって無念だったのは、阿波水軍の棟梁、海部氏が殆ど戦わず戦場を去ったことであろう。」

  この「海賊」は、瀬戸内海の村上氏や北九州の松浦氏など、
  後に武将に変身して、肯定的に受け止められている「海賊」とは、全くの別物である。

  これほど有名?なのに、徳島の海岸部では掠奪が発生していた、という文献については、よく知られていない。
           (徳島県立図書館から、「海賊に関する文献」について、情報をいただいた。
                                      「阿波の海賊についての文献情報」)
  

『日本交通史』児玉幸多編・吉川弘文館p109
   
皇太子殿下の直接のご専門分野で、皇太子殿下の先生が編集者として名前を出している話題の本

   の1445年「瀬戸内海の主要港」地図から、
入港数56隻海部が、執筆者によって削除されている。(編集部に確認済み)

   
隻数26・20・14・3・2の港が掲載されているのに、公平を欠く。 図版から消された海部  阿波・土佐の主要港


○1708年『土佐物語』由来の長宗我部氏関係の本
    『長宗我部元親』山本大(吉川弘文館)
    『長宗我部元親・四国の雄、三代の栄光と挫折』学研歴史群像シリーズ


  那佐湾・島弥九郎事件説明板  ○高知市ホームページ・高知市歴史散歩「島弥九郎の悲劇」

   『土佐物語』を基本にした本では、長宗我部氏が阿波で最初に海部を狙った理由を、
   1571年病気治療に向かう長宗我部氏の弟に、海部氏が故なく襲い掛かって、殺害したため、となっている。

   一般的に、江戸時代成立の戦記物の詳細部の信頼性は低いため、その記述は要注意であるにもかかわらず、
                                     (参:今井登志喜『歴史学研究法』全文
   鵜呑みの本が多く、検討の形跡が見られないことは、問題である。

   さらにこの時期は、長宗我部氏が、土佐の戦争で人々の注意を集めていた時期であり、
   病気治療にふさわしい時期ではない。

   『土佐物語』の史実性そのものが疑われて良いのではないか。   


○堺を基地にした遣明船の太平洋航路の話が、一般向け書籍から消えている
○応仁の乱以降、遣明船公貿易の中心は刀剣だった、という話も、一般向け書籍からはほとんど消えている
                  上記2点は歴史書籍全体の問題である。


○大里鉄砲隊80人駐留は地元では周知の話だが、県外向けには発信されない

      
○海部刀も、県内では有名だが、県外向けには発信されない

    大里鉄砲隊と海部刀のことは、以前の版の山川出版社『徳島県の歴史散歩』では見ることができた(現版未確認)が、
    県外の歴史関係者は、『徳島県の歴史』をよく取り上げていて、県外者には「知られていない」ような印象を受ける。


○スペイン船が250年間、「毎年」、太平洋を回り続けた、と言う話が、日本史関係では取り上げられない。
                                                     スペイン太平洋航路250年の疑問

    これは、東南アジア・フィリピン・スペイン史では常識であるが、
    スペイン遭難船救助の友好記念行事でも、
    関係者の間では、「毎年」運航していた、という話が、知られていなかった。

                           *ネット辞書ウィキペディアの「マニラ・ガレオン」の記事では、250年間に110回運行
                            という記事が出てくるが、そのようなことを書いてある書籍は、発見できない。
                            つまり、これもかく乱情報ではないか、と疑うのである。

    「毎年運行」に関して、電話連絡の上、それを知らなかったことを確認した所
          千葉・御宿町教育委員会、
          千葉県総合企画部国際室、
          外務省・日本メキシコ交流400周年記念事業事務局


徳島県「文化の森」振興総局・宇野氏から、私の活動に対して、神奈川の自宅まで直接電話がかかってきた。
  私の活動の様子はけしからん、という趣旨で、脅迫めいていた。
  海陽町教育委員会にも、同人物から脅迫めいた電話が入ったらしい。
  それもあって、2010年夏の発表会はやめにした。
   このような、疑問を疑問とするだけの、別に害ある内容でもないことで、脅迫する人物がいるのである。
   そもそも、そこがおかしいと思われる。

大里古墳・教育委員会説明版  海抜10メートル地点の墳丘流失?という説明はおかしいのではないか。
(東日本大津波が発生した今では、津波がどの程度のものがあったかによる、という点に問題が移動していると言えるだろう
                     2011.4.27追加)


    大里2号墳。徳島県内で大きさ第二位の横穴式石室である。砂地に築かれた石室が健在である。

    流失説には、低地にあったころに津波や水害にあって流失し、その後大地が隆起したという説明があるようだ。
     しかし、築いたのが人間なら、破壊したのも人間である、という可能性を、含むべきではないだろうか。

    円墳ということになっている。
    しかし、墳丘流失と説明するのも違和感があるし、
    円の部分しか残らないように道路を建設したのが、私が高校生だった1970年台後半頃だった、と、思うので、
    調査を不可能にする工作ではないかと、妙な憶測を生む経緯があるのだ。

    なぜ、前方部に該当しそうな部分を破壊するようにしか、道路が建設できなかったのか。

    これだけ削除・歪曲の例を見ると、仮に大里古墳が前方後円墳だったとして、それが前方後円墳だったら、
    文献上の削除・歪曲の成果を達成するのに、邪魔だった、という可能性がありはしないか。