「御郡代被 仰付候以来棟附」原文
         (『徳島藩職制取調書抜』より)
                                             徳島藩の海部支配

     寛政十一未年(1799年)三月八日
(略)


     寛政十二申年(1800年)六月廿六日
一海部郡村浦棟附御改并田畠調之義ニ付、彼是相行着存寄申出候帳面、

遂披見承届、申出之通被 仰付候条、

右様相心得可遂了簡旨、海部御郡代以趣意書、申渡之


    御郡代指出候帳面写

養父母死後之居懸、養子之儀は、去ル亥年、御指留被 仰付御座候、

然所、海部郡中之義は、先達而申上候通、

従来、御法令廃シ居候義故、右様之類数多御座候


(中略)


御家老方始、諸士家来等、彼地村浦ニ、以前より住居仕居申者之内、

有来御作法之通、郡御奉行手元相運居、并居切手等、所持仕候者之分は、

勿論無子細相居江可申義ニ御座候、

新家来筋慥ニ申立候共、御法ニ違不相運、居切手所持仕不申候而ハ無証拠故、

御帳ニ難居江、然共家来ニ相違無之候ハヽ、其筋目、主人より改相断候様可仕候、

其上は改御帳面ニ相居江可申候、

若不謂子細ニ而主人よりも断得心無候ハヽ、一応申断、

見懸人等ニ相居江可申候、

其者違背於仕は、是又御作法ニより所住居相障候様、可被 仰付哉


一百姓・加子人等、筋目を相偽り、御家老方始、諸士家来等ニ相成、

不埒 相構居申者 御座候様 相聞申候、

是等之義は勿論御法之通、夫々相調候上、地盤之身居江引戻候様、被 仰付度奉存候

   右弐ヶ条之儀は専御掟ニ相懸り、忽ニ難被 仰付奉存候

       
他に、p418、p433、p438、p439、p440。

寛政12年(1800年)・享和元年(1801年)5月までの分だけで、非常に長い。

「享和の逃散事件」が起きたのは、享和元年(1801年)11月である。

『海部町史』は、郡代・佐和滝三郎が、粗暴で悪知恵にたけ、残酷だった(p152)と書くが、

『徳島藩職制取調書抜』は、単にこうした、為政者としての史料だけで、事件のことは全くない

詳細な書き込みには多くの意図が込められているはずだが、私にはとても読みこなせない。


上記郡代が気にしている事の実例が以下のものである。

『海部町史』p122 大井村
享保12年(1727年)「棟附諸士御譜代帳」

「一壱家  森甚五兵衛様御家来  伝次兵衛
 壱人          同人弟    伝七
一壱家   同断            吉平     」