消される海部について訴える
                   吉川弘文館様・山川出版社様・皆様
                                                                                                                                       
トップへ戻る


児玉幸多編『日本交通史』p109地図の訂正依頼
山川出版社『徳島県の歴史』問題点指摘・注意喚起



--------------------------------------------------------------------------------

 「海部」記事掲載依頼の根拠となる資料と、その背景を示す資料

--------------------------------------------------------------------------------

1、千葉国立歴史民俗博物館史料NO.16「兵庫北関入船納帳にみる港湾と物産」

2、 林屋辰三郎編『兵庫北関入船納帳』中央公論美術出版・昭和56年(2) 

3、 週刊朝日百科日本の歴史・今谷明『琵琶湖と淀の水系』(3)

4、 平成7年版『海南町史』p188・189(4)と、東寺百合文書(大日本史料)とそれについての私の解説(5・6)
週刊朝日百科日本の歴史「満済准后日記」(7)

5、 南海路関連資料(堺・阿波沖・土佐沖・九州南端まわり)

海部芝遺跡発掘報告・海部公民館報(8)
遣明船南海路資料・(参:田中健夫『倭寇と勘合貿易』p96〜p109から)(9)

     吉田豊「中世堺の琉球貿易」堺市博物館報第25号2006年(10)
6、 平成7年版『海南町史』1500年代の畿内政権争い(11)

7、 長江正一『三好長慶』吉川弘文館「三好長慶姻戚関係図」p261(12)と、『阿波海部刀の世界』第22回国民文化祭海陽町実行委員会2007年(13)

8、 大里の阿波藩正規鉄砲隊 

『海部町史』p65・p66、平成7年版『海南町史』p262(14)

9、 大里古墳、海陽町立博物館の説明・説明版の文章(15)


--------------------------------------------------------------------------------

以下は山川出版社に対する『徳島県の歴史』『高知県の歴史』注意喚起・訂正要請に、共通した内容となっております。

--------------------------------------------------------------------------------

1、消されている海部


1445年「兵庫北関入船納帳」を元にした記事の内、一般の人が手に取りやすい、児玉幸多先生編の『日本交通史』P109地図から、1445年時点で入港数が全港湾で10位、四国で1位の「海部」が消されています。(1)(2)

(この件については、「誤植ではない。執筆者のK先生が、削除を判断したものだ。前例がないので訂正はしない」という返事を、編集部の方から、いただいております。)

 海南・宍喰・海部の合併によって現海陽町が発足しましたが、(3)の木材運搬量を計算すると、現海陽町(宍喰+海部)で徳島全体の43パーセントを占めます。

2、阿波と禅宗ですが、海部の「城満寺」は、1290年代創建で、全く触れられておりませんが、最古です。後に曹洞宗大本山総持寺開祖となった人が、若い頃に海部に来ていたのです。総持寺のホームページでも確認できます。

3、「海部氏」は、1352年、官位を持ち、細川氏の下で、京都の戦乱の重要時期に、重要地点で、国宝指定の根本史料に登場します。このことから、戦闘参加資格者としての、南北朝時代の特徴である長大な刀剣を、所有していたことが想像できます。またこれ以前から、特産で海陽町博物館の主要な展示品でもある「海部刀」の生産が始まっていたことも推察できます。『徳島県の歴史』では、阿波で「海部刀」が生産されていたという記事もありません。

また海部氏は、室町幕府基本史料『満済准后日記』にも登場します。これら、細川氏を通じての室町幕府との関係が、町史執筆者から町民に、何の説明もなされず、記述にも説明がないのが不審です。(4)(5)(6)(7)

4、「海部」は、すでに3世紀末から、高知・関西の海上交通の中継地でした(8)。1445年『兵庫北関入船納帖』から約20年後、1467年に応仁の乱が起きますが、これ以降、堺・阿波沖・土佐沖・九州南端を回る南海路が活発化しました。細川氏と海部氏の関係は1352年・1392年・1420年と、先に見た通りですが、堺と細川氏と琉球貿易の結びつきは、堺市博物館報に見るとおりです。「海部」が、堺と琉球の途中にあることからすると、風待ちなど、何らかの拠り所になった可能性を考えることができると思います。(9)(10)

私は、応仁の乱以降、日本刀が公貿易の中心だったという田中健夫氏の『倭寇と勘合貿易』p125の記事を読んで、海部も、貿易用の「海部刀」を作っていたのではないかと思っております。

5、海部氏は、阿波守護細川澄元から、京都の政権争いについて、手紙で事情説明を受けていました。(11)

6、海部友光と三好長慶は義兄弟の縁を結んでいます。三好長慶が「岩切海部」と呼ばれる海部刀を持っていたのはその関係でしょう。(12)(13)

7、海陽町大里には、1594年(平成7年版『海南町史』p262)から1651年(『海部町史』)まで、80人の阿波藩正規鉄砲隊が駐留し続けていました。
    1651年には半減の命令が出ただけで、途中の詳細は不明ですが、幕末には80人として、また出てきます。土佐側甲浦に対応するものがない以上、国境警備のためではないでしょう。理由が不審です。徳島県の歴史に書いて下さい。(14)

8、大里古墳の墳丘は「流失」となっていますが、頂上部、海抜約10メートルです。直径20メートル、高さ4・5メートルの土盛りが、草も木も生えず、流失した、というようなことは、あり得ないのではないでしょうか。

 築造時には低地にあって、津波や水害で流失したあと、地面が隆起したのだというような説明を、聞いたこともあります。しかし、「砂礫」の上に築かれた石室がそのまま残っている現状から考えると、そのような大地の激変があったとは、とても思えません。

 近藤編『前方後円墳集成』山川出版社などでは、前方後円墳の数は全国で約5200だそうです。3世紀末から海上交通の中継地だった海部は、交通の要地に築かれたという、前方後円墳の立地条件にかなう場所です。

 このことから私は、次のような想像をするのです。阿波藩が前方後円墳を削ったのではないか。明治期になって前方後円墳は天皇系譜のものという情報が入ってきて、そのまま長く続いた。天皇系譜のものを削ったということになると大変なことになるので、この古墳は円墳であり、土盛りは流失したということにしておこう。歴史はすべて阿波藩関係者の手の中にある。そういう工作がなされたのではないだろうか、と。(15)

  私の疑問は不遜なものかもしれません。しかし、古墳は、砂浜の小さな砂山と同じに考えていいものだろうか、と、疑問でならないのです。

 何度も河川の氾濫や津波の海水に洗われて流失した後、土台ごと、石室が崩れない程度の目に見えない速度で隆起したのか、それとも、長い堆積で厚く固まった砂礫の上に、盛り土して作ったものを、人が削ったのか、判定のしようはありそうな気がします。

しかし、考古学研究者が流失したと断定しているものを、どうやって再判定に持ち込めばいいのでしょうか。問題は簡単ではありません。ましてや、証拠隠滅とばかりに、前方部があったかもしれない部分を、道路建設で消してしまっている現状においては、もっと困難です。



『高知県の歴史』に、『土佐日記』の記事をもとに、海部近辺が海賊の中心地であるかのような記述が出てきます。

私は、史料とも言いがたい文学作品をもとにして、安直な歴史的風評を、安易に歴史記事にするのには、断固として反対します。そもそも海部は郡司がいたところであり、国司としては、むしろ安全な地であると思います。