京都で活動した海部氏の史料
                    平成7年版『海南町史』p188〜p189の3史料紹介文の原文
           (他の紹介記事と比較する時の便宜のためにUPする)

                                       海部氏の中央政界との結びつきへ戻る

1、正平7年(1352年)2月25日付け「東寺百合文書」に、
細川顕氏によって、山城国久世荘の乱暴人を排除するよう命じられた、
海部但馬守がみえる。

この但馬守は、北朝方として四国の武士団を組織し、
上洛して活発な軍事活動を行った、顕氏の被官と考えてよかろう。

北朝から但馬守に任じられるほどの有力な武士であり、
その活躍した時期からすれば、海岸了義の近親者、おそらくは弟か甥ではなかろうか。

但馬守以後の海部氏は、史料によるかぎり、
すべて北朝方あるいは細川氏の被官として活動している。


2、明徳3年(1392年)8月28日に行われた相国寺の落慶供養の様を記録した『相国寺供養記』に、
管領細川頼元に随従した武士たちのなかに、月毛の馬に乗った海部三郎経清の名が見える。

相国寺は京都五山のひとつで、室町幕府に隣接した寺域をもち、
いわば幕府と一体の存在となる寺院である。

当日の供養には将軍足利義満をはじめとする公家・武士が列席し、
寺内外は立錐の余地がないほどの盛儀であった。

この幕府の威信をかけた儀式に、騎乗して臨んだ経清は、頼元に極めて有力な被官であろうが、

このしばらく前に、元管領・細川頼之が亡くなっている。

このことからすれば、経清は元来頼之の被官で、頼之没後は、引き続き
その養子・頼元の被官として仕えたものと考えられよう。

また、経清の名は頼之の伯父和氏の長男でかつての幕府執事であった細川清氏から、
その諱の一字を与えられたものかもしれない。

清氏は幕府の権力争いに敗れ、南朝に帰順して阿波に帰り、
貞治元年(1362年)七月二十四日に、いとこの頼之によって讃岐国白峰で敗死させられている。

あるいは経清は当初は和氏・清氏の被官として活動し、
清氏の死前後の時期に頼之の被官に転じたとも考えられる。

経清と1の但馬守との関係は不明であるが、1と2の史料には40年の時間的隔たりがある。
経清は但馬守の孫の世代に当たるが、おそらくは孫そのものと考えてよかろう。


3、『満済准后日記』の応永27年(1420年)8月3日条に、
阿波守護細川義之の若党「カイフト云者」が登場する。

この「カイフト云者」が海部氏であることには疑問の余地がない。

この人物は、2の経清の子供の世代に属するが、
この時期になると、海部氏の主流は阿波細川氏の被官として活動するようになったものと思われる。