海部氏の中央政界との結びつき 平成7年版『海南町史』より
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阿波南部と言うと、決まったように935年の『土佐日記』が引用され、
正統歴史家でも、小説家でも、好んで海賊の出没地と書いてきた。
(『土佐日記』の疑問)
これらの記述には、「海部氏の中央政界との結びつき」というものが、
全く視野にない。 (前提条件としての、発掘土器に見る3世紀海部の海運事情)
しかし、平成7年版『海南町史』には、海部氏が、
中央政界の細川氏や幕府と関係していたことを示す史料の発掘がある。
ここでその内の3点を紹介したい。 参:平成7年版『海南町史』該当部分
1、 正平7年(1352年)2月25日付「東寺百合文書」 『大日本史料・6篇』
現在国宝指定の古文書である。古くから『大日本史料』として、活字に直したものが刊行されていた、その中の一つである。
およその内容は「山城国久世荘の乱暴人を排除せよ。細川
先行する史実を教科書的に並べると、
鎌倉幕府滅亡が1333年。
後醍醐天皇による建武親政が1334年。
南北朝の対立が始まったのが1336年。
足利尊氏が征夷大将軍となったのが1338年。
1290年代、曹洞宗大本山総持寺開祖・
1300年頃、江戸時代の本によれば、「海部刀」生産が始まる。
この史料の日付は、
「観応の擾乱」と呼ばれる、足利尊氏・直義兄弟の争いを中心とした内乱が、
翌26日に弟・足利直義が急死することによって、一つの区切りを迎える、
その前日に当たる。
文書を出した細川
とすれば、随分古い時代に、遠い所から出かけているという驚きはあっても、
あり得ない、ということにはならない。
後の、細川氏との関係で浮かんでくる史料類から考えても、
おそらく阿波・海部氏であろう、ということになる。
久世荘は東寺八幡宮領だった。幕府はその訴えにより、守りを固める体制をとった。 東寺
ということが『大日本史料』にあり、それに続いてこの史料が掲出されている。
それを命じられた一人が「海部氏」だったということらしい。
以下は当時の情勢についての概略である。
南北朝の対立の中、鎌倉では尊氏・直義兄弟が戦っていて、
京都を守っていたのは、尊氏の息子の義詮。
南朝が京に対して進軍の様子を見せると、不安な義詮は南朝に対して和睦を申し入れる。
26日、鎌倉では足利直義急死。近畿では南朝の後村上天皇が京へ向かい始めた。
しかし、和睦にしては、京に近づく南朝の軍勢は非常に多かった。
合戦の噂が飛び交い、情勢は非常に流動的だった。
後村上天皇は、和睦のために京都に向かってくるのか、それとも戦闘のためか。
その頃に、海部氏に対して、南朝が進む方向にある久世荘に行って、
治安維持に当たるようにという命令が出る。
結局、南朝軍は京都に攻め入り、
足利義詮を追い払い、北朝方の3上皇と親王を、南朝の根拠地へと拉致する。
細川顕氏は逃げ落ち、細川頼春は戦死。
足利義詮も近江まで逃げ落ちた。
『太平記』では30巻あたりの話に該当する。
海部氏は出てこないが、細川顕氏が著名人として登場することで、
海部氏が南北朝の騒乱の中にいたことを、感じ取ることはできるのではないだろうか。
注1:出典が『大日本史料』とあるもの以外は、講談社・『日本の歴史・太平記の時代』新田一郎著より。
一般向けなので、どこからどこまでが根本史料か、というようなことは、わからない。
信頼できるのは、海部氏が登場する古文書の方である。
少なくとも、日付と、場所と細川顕氏との関係は、明瞭である。
注2:海部地名は日本各地にあるが。(海部地名)
2、 明徳3年(1392年)8月28日『相国寺供養記』 『群書類従・24』(『相国寺供養記』の海部氏・原文)
相国寺は幕府の寺である。金閣寺・銀閣寺は相国寺の下にある。 相国寺
その落慶供養の記録に、
管領細川頼元に随従した武士たちの中に、月毛の馬に乗った海部三郎経清が出てくる。
相国寺は京都五山の一つであり、室町幕府に隣接した寺域を持つ。
いわば幕府と一体の存在の寺院である。
当日の供養には将軍足利義満をはじめとする公家・武士が列席し、
寺内外は立錐の余地がないほどだった。
1の東寺百合文書から40年後である。
この2ヵ月後には、南北朝が合体する。これも重要な時期である。
3、 応永27年(1420年)8月3日『『満済准后日記』 『続群書類従・補遺1』(『満済准后日記』の「カイフト云者」・原文)
阿波守護細川義之の若党「カイフト云者」が登場する。
「海部氏」に間違いない。
注目は『満済准后日記』である。
満済は醍醐寺座主。当時の仏教界の最高の地位を占めた。 醍醐寺
別名、「黒衣の宰相」とも呼ばれ、
義満・義持・義教と、3代の足利将軍の護持僧として尊崇されるとともに、
義持・義教将軍の政治顧問でもあった。
幕政の枢機に参画し、政事・外交に献策するところが多かった。
特に義教には政事の大小を問わず諮問を受けた。
その日記は、1411年(応永18)、13〜22、23〜35(応永30〜永享7)にわたる。
自筆本。
記述は詳細・正確で、当時の幕政・外交および社会情勢・文化を知る上の根本史料。
以後、1445年の兵庫北関入船納帳を始め、
1500年代に至るまで、近畿の政情にかかわる文書がいろいろあるが、割愛する。